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 南海電車本線の堺駅で途中下車した。
中世に南蛮貿易で栄えた堺港、現在は堺旧港と云われるが、それを見学するのが目的である。
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 駅から西へ少し行くと国道26号線へと出る。
この国道を渡ったところが旧の堺港である。
現在は、親水プロムナード云われ、きれいに整備され、遊歩道も完備されている。
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 港の懐に、旧の堺環濠都市の水路と水をやり取りする水門が設けられている。
そしてその横に呂宋助左衛門(るそん すけざえもん)の像がある。
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 その像は手を挙げて合図をしているような様子である。
南蛮貿易で大きな財を成した助左衛門であるから、港に入って来た船に合図を送っているのであろう。
 助左衛門は天下人となった豊臣秀吉に対して南蛮から買い付けたルソン壺(呂宋壺)や唐傘、香料など珍らしい物を献上しることで秀吉の保護を得て、広く国内相手に豪商として活躍した。
 しかし、あまりにも瀟洒な生活をしたため、石田三成ら文治派の告げ口により、邸宅没収などの処分を受けることになったが、事前に察知したので、邸宅や財産は自らの菩提寺に寄進して、ルソンの日本町へと脱出したと云われている。
 堺旧港の中心へと張り出したところに、像が立っている。
龍女神像と云われ、台座も含めて26mの高さがある。
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 この像は、中世の堺港とは全く関係がないものである。
明治36年内国勧業博覧会で水族館前に設置されたものである。
「乙姫さん」の愛称で親しまれたが、水族館廃館で撤去されていたものを、平成12年にこの場所に復元建設されたもので、堺の市内を見守っているような像である。
 灯台は堺旧港の入り口にある。
湾の入り口までは数百mの道のりである。現在は、旧港のずっと向こうまで埋立地が広り、その上を高速道路が通っているので、港の雰囲気はそがれているが、港は港である。
 旧港の入り口に、建設した場所に現存するものとしては日本最古の木製洋式灯台がある。
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足場も含めて国の史跡に指定されているものである。
明治10年の建設で、約90年経過後の昭和43年(まで、堺とその沖の大阪湾を照らし続けたものである。

 灯台を間近で見ることができたので、元に戻ることにする。
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折角なので、湾に沿って半円状に歩いてみる。
 暫く行くと整備された道は無くなる。
大きな化学工場がある。
風邪には「改源」で知られる薬の材料や、その他多くの化学材料を製造している堺化学の工場である。
 この工場に沿って進み、国道まで戻ったのであった。

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すでに昼は過ぎてしまった。
遅ればせながら昼食処を探してみよう。

 川を北へ渡った国道沿いに「■■うどん」と、良くは見えないが、うどん屋を示す数本の幟が見える。
とにかく行ってみよう。
近づくと「薩摩うどん」と読める。
薩摩というからには、鹿児島のご当地のうどんであろうと、店に入ることにした。
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 店はマンションの1階にある。
引き戸を潜り、カウンターに腰掛けたのであった。
 おしぼりとお茶が出され、メニューを眺めて見た。
よく見るうどんのメニューと丼のメニューが並んでいる。
変わった名前のうどんでもあればと思ったが無いので仕方がない。
「きつねうどん」を注文したのであった。
 店の中には4、5人の客がいたが、全て料理が出されている。
カウンターの中の調理場で注文と同時にうどんを湯がき始めたのは、こちらの分であろう。
 しかし1分経っても2分経ってもうどんが出来上がらない。
かなりかかっているようである。恐らくは生めんから茹で上げているのであろう。
これは期待できる。
 10分ぐらいたってやっとうどんが出てきた。
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麺は細うどんである。
茹でることから調理を開始するので,細いほうが待たせる時間が少ないので良いのであろう。

 さて、頂いてみよう。
先ずは出汁、カツオとコンブの出汁であろう。薩摩ならではの特徴はない。次に麺、細い割にコシはすこしあるが、噛み応えがあると云う程ではない。
揚げの味付けには特段の特徴もない。甘さ控えめぐらいであろうか?
 大阪のうどんとあまり変わらないなあ…、と思いながら完食したのであった。
 お代を払う時に、丁度レジに立ってくれた店の主人らしき人に聞いてみた。
「鹿児島のうどんって大阪と変わらないんですね…」
「店の屋号は薩摩ですが、実は大阪のうどん屋なんですよ。先代の出身が鹿児島なもんで、この屋号にしたようです。最初はそば屋をやっていたんですが、うどん屋に鞍替えしたんです」
「そうでしたか。それは残念。しかし、細いうどんは美味かったですよ」
「讃岐の太くてコシのあるのが流行りですんでね。それへの対抗です。またよろしかったら…」このようなやり取りをして、店を後にしたのであった。