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 大阪と京都を結ぶ京阪電車の京都の三条駅は、大津や山科への乗り換え、更には京都市内の北や南方向、そして西方向への乗り換えができる便利な駅である。
 この三条駅の現在は地下駅であるが、駅から地上に出たところに、昔懐かしい佇まいの食堂がある。
「SD屋」と云い、創業は明治時代とのことで、老舗と云える店である。
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この食堂の名物は、「皿盛」と「中華そば」、一度行ってみたかったので、三条駅で乗り換えるついでに昼食に立ち寄ってみた。

 店内も昔風である。
小さなテーブルが10脚ほど、うち2つは小上がりである。
フルに座れば30人強が可能であるが、そうなるとかなり狭苦しくなるような雰囲気である。
この時の客は半分ほどで、丁度良い位であった。
 小上がりに着席し店員嬢を待った。
皿盛をと思ったが、良くは分からないので、先ずは無難な中華そばを注文した。料理を待つ間にも客は入ってくる。
注文を聞いていると皿盛と中華が半々ぐらい、そして先客のテーブルをチラ見してみると、やはり半々ぐらいで、それ以外の料理を食べる人はいないようである。

 5分ほどして、中華そばが出てきた。
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スープは醤油の半透明である。細かい脂が浮いているので、出汁は鶏ガラであろう。
麺は少し黄色の中細のストレート麺である。
トッピングは、メンマ少々、少し多めのチャーシュー、刻みネギ、そしてチャーシューの上には結構な量のコショーが予め振り掛けられている。

 麺鉢も併せて昔ながらの中華そばの雰囲気である。
さて、頂いてみよう。
 先ずはスープ、醤油味のスープは少し辛めを感じたが、食べているうちに程良い感じとなる。
麺はスープを吸って、まろやかになっている。
チャーシューは少しゴツゴツしている感じで、メンマも同様である。
 総合して、昔の中華そばの少しの現代風と云う感じで、美味しく頂いたのであった。
 その後、幾日か経って再び三条駅を通ることがあった。
この日も昼時であったので、再度SD屋を訪れ、今度は皿盛を頂くことにした。
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 今回も前回と同じ小上がりが空いていたのでそこに座り、皿盛を注文して、しばらく待った。
中華そばよりは少し時間が掛かったようであるが、皿盛が届けられた。
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 見た感じはカツカレーである。
しかし、ルウでは無く、あんかけのような出汁がライスとカツを覆っている。
出汁には、刻んだネギと、若干の細切れの牛肉が入っている。
 店の説明によると、カレーうどんのルウだそうである。
 どんな味がするのだろうか? さあ頂いてみよう。
 あんかけであるのでかなり熱い。
フウフウしながらルウを食べる。
甘さの中にピリッとした辛さで締まる。
 カツは良く揚がっている。しかし豚肉は結構薄い。
カツカレーの様にカレーカレーしていない。云うならば「あんかけかつ丼」か?
 初めての味を頂いて「皿盛」に納得した次第であった。
 さて、もう少しだけ乗り換え時間の余裕がある。
三条大橋の周りを見てみよう。
 三条大橋の西詰め南側には滑稽本「東海道中膝栗毛」で知られる弥次郎兵衛、喜多八の像が建っている。
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 右が弥次郎兵衛50歳、左が喜多八30歳である。
江戸の八丁堀に住んでいた2人は度重なる不幸から厄落しを思い立ち、東海道を伊勢神宮へと向かう。
行く先々で騒ぎを起こすが、狂歌や洒落でかわして行く。
 お伊勢さんの参拝後足を延ばして、京、大坂見物と洒落込んだ。
京に到着したばかりの弥次さん喜多さん、何を見つけ何を喋っているのであろうか?
 その近くの橋の擬宝珠である。
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 南側欄干の西から2本目のもので、良く見ると真ん中付近に刃物の傷のようなものが付いている。
この傷は、幕末の池田屋騒動の時に新撰組と勤王浪士たちが切りあった時にできた刀傷であると云われている。
時は140年以上も過ぎているので、その後の改修とかもあり真偽のほどは定かではないが、ありうる話ではある。
 通りを挟んで北側に古い橋桁が置かれている。
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 「天正十七年津国御影」と書かれている。
三条大橋は日本で初めての石柱橋で、架けたのは豊臣秀吉と云われる。
その時の奉行は増田(ました)長盛で、神戸の御影石を切り出して築橋したと云われている。
 もう一つ三条大橋の東詰めに駅伝の碑がある。
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 碑文によると、我が国初の駅伝はここ三条大橋をスタートに東京の上野不忍池をゴールにして、大正6年4月に3日間にわたり開催されたとある。
一日に160~70Km程度走ったことになる。
現在の箱根駅伝は片道1日で100Kmであるので、その2倍弱の距離を走ったようである。