1
 大阪市南部の西成区に「天下茶屋(てんがちゃや)」という駅がある。
大阪市営地下鉄の堺筋線の南の終点であり、関空や和歌山市そして高野山へ向かう南海電車との乗り換えができる駅である。
イメージ 1
 この天下茶屋駅の南海駅の改札口フロアのコンコースに幾つかの食事処がある。
丁度昼時であったので、昼食をとることにして、店を探してみた。
目立ったのはカレーの店である。
店名は「INDのルー」、カレー専門店である。
イメージ 2
 カレーは良く食べているので、どうかな?と思ったが、他にはない。
店頭には、色んなカレーの種類の写真が並べられている。
食べたことが無いメニューもある。
 まあいいかと思い、思い切って店に入ってみた。
店内は厨房を取り囲む長いカウンターとテーブルが4~5卓の様子で、この時の客は3割ぐらいである。
さて注文である。
メニューを見てみた。
カレーは時々食べたりするので、これは食べてみたいというものはないが、そう云えばハンバーグをトッピングしたカレーは食べたことが無かったので、それにした。
 5分ぐらいしてカレーが出てきた。
イメージ 3

ハンバーグは皿の大きさに比べて、意外と小さい。
ちょっとガッカリであるが、ハンバーグはあまり好まないので、このくらいが適量である。

 カレーと云えば、店により、最初は辛く感じるがそのうち甘く感じてくるもの、またその逆に、甘いた感じるがだんだんと辛さを感じてくるもの、最初から最後まで一貫して味の変化を感じないもの、などに分類される。
 この「INDのルー」はどうなんであろうか?
興味のあるところである。まずはルーを一口。

 ほど良い甘さである。
テーブルに辛口スパイスも置かれているが、このまま行ってみよう。
 次にハンバーグ、良くは分からないが、普通のハンバーグで、さして特徴は無い。
勿論ハンバーグへ掛けるソースは、カレーのルーなので、ソースは無い。

 ライスとルー、そしてハンバーグ片をスプーンに乗せ、頂いてみた。

しかし、途中からの味の変化は感じられない。
そして最後まで同じ味で完食したのであった。

              2
 さて、天下茶屋と云えば、戦国時代の歴史に由来している地名である。
 かつてこの辺りは紀州街道が通っていたが、鬱蒼とした森が茂る鄙びた土地であった。
 しかし森の中にはお茶に適する質の良い水が涌いていたと云われる。
千利休の師である武野紹鴎(じょうおう)が、この森に茶室を造り、周辺からは紹鴎の森と云われるようになった。
 そこに天下人となった豊臣秀吉が、住吉大社や堺への行き帰り、ここで休憩し紹鴎の茶を嗜んだという逸話から、「天下人の茶屋」⇒「天下茶屋」と云われるようになったようである。
イメージ 4
 後に、天下茶屋にふさわしい5000㎡に及ぶ広大な屋敷を造営して、御殿や秀吉好みの恵水と名付けられた井戸や茶室も造られた、と云われている。
 その屋敷は太平洋戦争の時まで残っていたが、爆撃で破壊され、現在は北西の一隅に、秀吉を祀る土蔵が往時を偲ぶものとなっている。
イメージ 5
 その天下茶屋跡と旧紀州街道を挟んで一つの神社が鎮座している。
イメージ 6

天神森天満宮とか天下茶屋天満宮とか呼ばれる。

 菅原道真公が大宰府へ左遷された折、住吉神社へ参る途中にこの地に休息したと云われ、祠が設けられていた。
室町時代になって北野天満宮より道真公の分霊を勧請して、奉斎したとの経過がある。
イメージ 7
イメージ 9
イメージ 8
 この神社には安産の御利益があるという「子安石」が祀られている。
淀君が懐妊の時、秀吉も参拝し、無事に秀頼公が生まれたとの逸話もある。またこの神社の境内には、「天下茶屋の仇討」に関する供養塔が建っている。

 天下茶屋の仇討とは、豊臣秀吉が亡くなって、天下は秀頼・石田三成と徳川家康方に二分された。
備前国宇喜多秀家は秀頼・三成方にて挙兵したが、家臣の長船紀伊守は家康方につき、秀家の重臣であった林玄蕃を部下に暗殺させた。
 玄蕃には2人の息子がいて、仇討ちを試みるが、兄の方は返り討ちに遭い死亡、弟源次郎が木村重成や片桐且元の力を借り、親と兄の仇である当麻三郎衛門を打ち取り本懐を遂げたという物語である。
 仇討ちの場所は天満宮の50mほど南の出口橋で、その場所には供養塔である2基の宝篋印塔が建てられていたが、道路工事のために神社境内へと移されたものである。
イメージ 10