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 京都駅と奈良駅を結ぶJR奈良線の小倉駅で下車し、付近の探索をしてみる。
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小倉とは、巨椋(おぐら)を現代風に当て字したものである。

 その巨椋とは巨椋池、昭和の前期まで大きな池であった。
現在はそっくり埋め立てられていて、その埋め立て地は農業用地である。
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縦横に自動車道路が敷設されているが、住宅は一切建てられていない。

 その巨椋池の南岸に古代からは神社、そして中世の戦国時代には城があったと云われる。
神社は式内社「巨椋神社」、城は「槇島城」である。
巨椋神社は、現在も祀られているが。城は城跡として存在する。
 巨椋神社は小倉駅の1kmほど北の住宅街に鎮座する。
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 巨椋神社の祭神は、春日神の四神である。
武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふっつぬしのかみ)、天児屋根神(あめのこやねのみこと)、そして比咩神(ひめのかみ)である。
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 しかし元々はこの地の豪族巨椋氏の祖神を祀っていたとされるが、大和から天皇に付いて平安京にやって来て、勢力を拡大した藤原氏が、藤原氏の氏神の春日神に変えたと云われているものである。
 巨椋神社から東へ向かう。
田圃の中を一頻り東へ進むと住宅地となり、そこには槇島城跡がある。
槇島城は、ご存じ織田信長に疎んじられた室町最後の将軍足利義昭が信長に叛旗を翻し、立て籠もった城であるが、義昭はあえなく粉砕されたところである。槇島と云うのは当時は巨椋池の周辺の島である。
しかし宇治川が流れ込んでいて、その三角州の様なものであるので、海の島とは違い渡るのにそう苦労は要らないのであったかと思われる。
 本丸跡は現在は住宅街の中の小さな児童公園である。
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標柱と説明板が立っている。

 信長軍の進軍経路も示されている。
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 城域は広かった様である。
住宅街の外れの城跡公園とされている。
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城の縄張り図はないが、かつての城を感じることができる。

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 さて、巨椋池と云えば豊臣秀吉が池を縦断する堤を築くと共に、宇治川が池に流れ込まないようにもう一つの堤を築いたと云われる。
俗にいう太閤堤である。
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 その遺構が発掘されていて、その跡を公園とする計画であるらしいが、現在は途中の停止状態である。
槇島の宇治川対岸にこれらの史跡、太閤堤跡がある。
但し、今は宇治川を渡る手段が無いので、これらの写真は、別途の取材のものである。
 槇島城跡から秀吉の太閤堤の小倉堤まで戻る。
 小倉堤は現在の国道24号線である。
 そろそろ昼食タイムである。
国道の両側にはそれなりの食事処が数多くある。
 その中に橙色の「YN家」でなく青の「そば 牛丼 YN家」というのがあった。

YN家も牛丼以外の商いもやるのだなあと思いつつ、蕎麦でも食べてみるかと、その店に入ったのであった。

 メニューを見ると牛丼もあるが、それには見向きもしない。
蕎麦のメニューから選ぼうと、眺めて見た。
 「コロッケそば」がある。
関東ではよく見かけるが、関西の蕎麦には殆どない。
この機会にこれをと、コロッケそばを注文したのであった。
 カウンターに座り、待つこと五分位か、蕎麦が出てきた。

ワカメ、天かす、刻み葱が乗っている。
出汁も関東風で濃いようである。

 さて頂いてみよう。
 コロッケは崩さずに出汁に沈めて、出汁の味をコロッケに染ませる。
そしてコロッケを少し分けて食べてみる。
濃い出汁が染みて、柔らかいが原型を保ち、出汁とのコラボレーションの不思議な味である。
一方、出汁はコロッケを揚げた油が混ざり込んでいて、まろやかとなっている。
 そば麺は良くは分からないが、シャキシャキと結構美味い。
立ち食いそば屋で食べるような蕎麦ではない。
後で聞いてみると十割蕎麦とのことで、納得である。
 しかし出汁を関東風にするならネギも白ネギにして欲しかったなあ、というのが実感のコロッケそばであった。
 そして、YN家を後に、今度は近鉄京都線の小倉駅へと向かったのであった。