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 青森県内での用を済まし少し時間があったので、青森駅で途中下車し、かつては青森駅の構内であった青函連絡船の桟橋、埠頭を訪れてみた。
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 青森港には、港内観光用の歩行専用の「青森ラブリッジ」、ラブリッジの上方に高架自動車道路「青森ベイブリッジ」が架けられている。
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 このラブリッジから、かつての連絡船の一つ「八甲田丸」が観光用に繋留されているので、その外観雄姿を眺めることができ、当時を偲ぶことができる。
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 連絡船の船尾に接続線が結合され、鉄道車両を船に積み込むことができるものである。
そのゲート桟橋も保存されている。
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連絡船が接岸する岸壁埠頭の方に回り込むと、船首付近に青函連絡船に関わる「津軽海峡冬景色」の歌謡碑が建立されている。
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 ご存じ、歌手は石川さゆり、作詞は阿久悠、作曲は三木たかしの名曲である。
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 その他にも、連絡船が爆撃沈没された記念碑も建てられている。
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 この碑の碑文には、
『第二次世界大戦末期の、一九四五年(昭和二十年)七月十四日、米海軍艦載機の攻撃により、物流の大動脈であった青函連絡船「翔鳳丸」「飛鸞丸」「第二青函丸」「第六青函丸」が、八月一〇日には「亜庭丸」が青森湾で撃沈され、百三十一名の犠牲者を出しました。
・・・・
また、七月十四・十五日に津軽海峡と函館湾でも攻撃を受け、青函連絡船は全滅をし、乗員乗客四百二十四名の尊い人命が失われました。
 今も、津軽海峡には「津軽丸」「第三青函丸」「第四青函丸」が、この航路に殉じた人々と共に、永久の眠りについています。
 青森市民の目前で繰り広げられた、悲惨で残酷な空襲・戦災から六〇年を経ましたが、今では、当時の惨状を止めるものはなく、人々の記憶からも薄れ、知らない世代が増え、風化されつつあります』
 この戦争の悲惨さ不幸さを改めて感じた次第である。
 歌謡碑の所には、八甲田丸のスクリューが2基展示されている。
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 八甲田丸を後にして青森駅へと戻る。
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青森からの移動には、東北新幹線が便利であるので、新青森駅へと向かう電車に乗った。
青森駅と新青森駅は、丁度大阪駅と新大阪駅との関係のようなもので、5分程度で移動できる。
しかし、電車の本数が大きく違うので、大いに気にする必要がある。

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 新青森駅は、今から丁度6年前、東北新幹線の青森までの延伸開業に伴い、営業を開始した新幹線駅である。
そして、今年3月の北海道新幹線の開通により線路が接続され、北海道への本州の玄関口として、益々の充実がなされた駅である。
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 駅の1階には、屋台風の食事処が並ぶところと土産物屋が夜店風に並ぶしつらえの「あおもり旬味館」
という集合店舗がある。
 新幹線に乗る前に腹ごしらえと思い、屋台風の店を眺めて見た。
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店頭にショーウインドーやらメニュー写真やらが並べられている。
聞いたことのない食べ物が幾つかあった。
迷ったのは、根曲がり竹とワカメの煮干中華の「太宰らうめん」と、その隣の店の「つゆやきそば」である。

 結局は「つゆやきそば」に決定し、その店「KSや」に入店したのであった。
その理由は、店内の客が多い方であった。
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 カウンター10席強と店頭にテーブルが1卓の店である。
カウンターの中では、焼きそばを忙しそうに焼いている。
「つゆやきそば、お願いします」と声を掛け、窓側のカウンターに着席し、料理を待つことになった。
 10分ぐらいして、やっと出てきた。
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 見た感じは皿に盛られたラーメン状態である。
トッピングにフラットで細長い麩の様なものが使われていて、麺は埋もれているのかな? と思い探ってみたが無い。
なるほどなるほど、フラットなのが麺であった。
 納得して、さあ頂いてみよう。
ラーメンを食べる感覚と同じである。
先ずはスープへ。少々甘い感じがする。
カウンター上に「黒胡椒にんにく」という振り掛けが置かれている。
これをやきそばに掛けると、丁度良い好みの味となった。
 麺は噛み応えが無く、柔らかいものである。
トッピングは、キャベツ、ニンジン、タマネギ、刻み葱までは確認できる。
そして大量に散りばめられた揚げ玉は、スープをまったりとさせてくれている。
 これは癖になりそうな味である。
因みにメニューを見てみると、トッピングの種類にホタテ、長芋チーズとかがある。
 この「つゆやきそば」は黒石市の名物だそうで太平麺と甘い和風出汁が特徴とのことである。
そして、このやきそばはB-1グランプリに常連出場だそうでもある。
 良い食べ物に巡り合ったものである。
そして、駅通路の壁に掛けられている「ねぶた」に見送られ、新幹線ホームへと急いだのであった。
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