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 阪神電車の梅田から2つ目の野田駅の隣に、阪神電鉄の本社と並んでショッピングビルがある。
野田駅は大阪地下鉄の野田阪神駅、JR東西線の海老江(えびえ)駅への乗り換えの駅でもある。
 このショッピングの階上に高山ラーメンの専門店「HDのTYラーメン」がある。
高山発の店ではなく、レストランの全国チェーンの一つ「IBWK」が経営するラーメンチェーン店で、全国に17店舗を有している。
そして身近には、数店舗もある。
 訪れたのは丁度昼時であったので、店は満席状態であった。
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入店待ちとなるところであるが、一席譲ってくれた客がいて、上手い具合に入店、座ることが出来た。
そして店員嬢に、基本となる高山ラーメンを注文したのであった。

 10分ぐらい待ってラーメンが出てきた。
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 スープは薄い色であり、一瞬塩ラーメンかと思ったが、味わって見ると鶏出汁の醤油味である。
トッピングは、チャーシュー、白ネギ、メンマ、ホウレンソウ、それに海苔がラーメン鉢の縁に飾られている。
麺は縮れ麺である。
鹹水や塩をあまり使わないそうで、スープが良く滲み込み、味わいがある麺である。
麺、スープ、具と交互に頂きながら、忽ちに完食したのであった。
 最近は濃厚な味のラーメンが多い中、あっさりと頂けた満足の一杯であった。

ここで、高山ラーメンの歴史を辿ってみる。

京都や大阪で料理人の修業をしていた富山県八尾町の若者が、一旦帰郷し、再び京都へ行こうと思って列車に乗ったが、高山に魅かれるところがあったのか高山で途中下車した。
高山の居心地が良かったのであろう、そのまま高山で滞在したと云われる。
そして高山で調理人となった若者は、昼は料亭の板前、夜は屋台でラーメンと思い切り仕事をしたのであった。
ラーメンは以前に中国人から教わった支那そばである。
時は昭和の13年、飛騨中華そばの始まりであった。

しかし、そのまま戦時中となった。
戦後になって再び屋台を始めたのであるが、やはり繁盛した。

そのうちに店舗を構える中華そば屋もでき、昭和の24年には製麺業者もでき、高山のラーメンは益々繁盛したと云われる。
 高山ラーメンは出汁とスープを一緒に煮込むそうである。
そして麺はやはり、鹹水や塩をあまり使わない縮れ麺とのことである。
これはスープが麺に良く滲み込む様にと研究した結果であると云われる。
 尚余談であるが、高山には年間で50万人、一日で客の多い時には2000杯も出る店があるという。
紛れもなく日本一の店である。
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 阪神野田駅と云えば、パナソニックに繋がる家電の雄「松下幸之助」の創業の地である。
駅を出ると国道2号線を挟んで、向こう側の商店街入り口に「松下幸之助創業の地 記念碑」という横断幕が掛けられている。
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 この商店街に入り案内に従って暫く歩くと、「道」と大きく書かれた記念碑らしきがある。
ここは公園となっていて、創業の場所を示す地図も設けられている。
 先ずは創業の家と云うのがあったので行ってみる。
西野田工業高校のフェンスに看板は設置されている。
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 この地図からは、この看板の前のお家がその家の場所らしいが、恐らくは再建築されているお家であろう。
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それ以上の調査は無理とする。
説明によると、この場所で、アタッチメントプラグや2灯式のソケットを生産し、販売したとなっている。

 その後、この場所も手狭になったため、工場を別に設立した。
第2工場と云われる。
 ここでは、自転車用や手提げ用の乾電池式のランプを製造したとのことである。
そして初めてナショナルと云うブランドを付けたそうである。
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 商売が順調に進み、松下電気器具製作所はどんどんと大きくなる。
そして場所を求め、先程の記念碑の場所に第2次の本店を設立したのである。
しかし、それまでは良かったが、そのまま戦時中となり、軍需品の生産を行った。
 戦後になって、GHQから制限会社と云うレッテルを張られ、義理の弟である井植歳男らが、松下を去り、三洋電機製作所を設立し、自転車の発電ランプを製造したのであった。
 幸之助は最初から、小振りの住宅内での工場であるが、腐らず前向きに仕事を進めた結果、偉大なる企業人となり、経営の神様とも云われる人物になったのである。
 他にも工場なりの跡があるが、説明板だけであるので、割愛させて頂く。