1
 仙台には味噌や醤油、それに酒などの醸造にまつわる文化がある。
 それらの中で味噌の元を辿れば、伊達政宗が朝鮮出兵の時に持参した味噌が夏場でも腐らなかったので、他の武将達から望まれて分け与えたことから、政宗の味噌が知られるようになった。
 その後、仙台藩では藩主政宗の指示により、城下に御塩噌蔵が設けられ、真壁屋市兵衛が藩主の肝入りで醸造に当ったと云われる。
 その後、第2代目藩主忠宗の頃より、江戸大井の仙台藩下屋敷へ味噌が運ばれ、江戸勤番の藩士に配給された。
そしてその余り分を江戸市中の味噌問屋へ払い下げたため、仙台藩の味噌としてその名が江戸から全国に広まったと云われる。
また、このことから仙台藩下屋敷は「味噌屋敷」とも呼ばれるようにもなったとのことである。
 その後、江戸、明治を経て太平洋戦争に至るまで、仙台味噌は関東東北で圧倒的なシェアを誇ったが、戦後は信州味噌などが台頭してきたのも事実である。
 今までの歴史的経過はともかくとして、現在においても仙台味噌は良く知られている。
 その仙台味噌をスープに入れた味噌ラーメンを提供している店が仙台には沢山ある。
今回はあまり時間も無かったので、仙台駅の近場で味噌ラーメンの店を探して行ってみた。
 仙台駅の西側は陸橋で構成されたロータリーになっているが、駅前道路を挟んで階段を下りたビルの地下に「AY」という店があった。
イメージ 1

表には辛味噌ラーメンとある。
全く経験のないラーメンであるが、話のタネにと入ってみた。

 カウンター10席ばかりの店である。
先客は3名ぐらいか…。
 カウンターの隅に腰を掛け、先ずは「辛味噌ラーメン」と注文した。
ラーメン待ちの間にネットで見てみると、ここは仙台駅前分店と云う。
本店は若林区にあるとのことで、そこが味噌ラーメンの発祥との書き込みもある。
これは期待が持てると、ラーメンを待ったのであった。
 5分位してラーメンがカウンターの中から手渡された。
イメージ 2
 スープは味噌であるが、仙台味噌の赤味噌ではない。
関西や信州の合せ味噌のように薄い褐色である。
トッピングは、大きな一枚のチャーシュー、メンマ数本、それにネギとホウレンソウのようである。
 レンゲに赤くていかにも辛そうな味噌らしきエキスが乗っている。
なるほど、これを混ぜて食べるのであろう…。

                 2

エキスを混ぜる前に、現状の味噌スープを味わってみた。
あっさりした、どちらかと云うと甘さを感じる味噌スープである。

 赤いエキスを混ぜてみた。
程よい辛さと、濃厚なスープに変身したのであった。
 麺は縮れ麺である。あまり鹹水も熟成も無いようである。
イメージ 3

十分に最初の味噌スープを吸い込んでいて、食べ易い。

 そこに現在のスープは辛味噌味、何とも言えない絶妙なコンビネーションである。
最後まで美味しく頂いたのであった。
 さて、仙台と云えば広瀬川と青葉城とも云う仙台城である。
慶長年間に伊達正宗が築いた城である。
広大な敷地を有するが、徳川幕府からの疑いを恐れ、天守は設けられていない。
 尚、余談であるが、政宗は城内に「御酒屋(おさかや)」を設け、大和の国から醸造職人を招き、明治に至るまでこの場所で酒が造られていたと云われている。
そしてこの酒が、宮城の美味い酒、浦霞や一ノ蔵などへと受け継がれているのである。
 この青葉城に別の機会に訪れたことがあった。
仙台駅からバスで広瀬川を渡り、その先の大手門跡の付近でバスを降りた。
大手門や脇櫓を始め建物は仙台空襲で破壊されたが、現在は脇櫓だけが再建されている。
イメージ 4
 脇櫓から頂上の本丸への道を登る。
途中に沢門跡があり、野積みの石垣が残っている。
イメージ 5
 更に登ると本丸下の石垣に出る。
見事な石垣である。
イメージ 6

東北の地震でかなり傷んだが、見事に修復されている。

 石垣を回り込むと本丸広場に到達する。
 本丸跡地は広い。
神社も設けられている。
そして有名な伊達正宗の騎馬像があり、仙台の市街地を広く見渡すことができる所である。
イメージ 7