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大阪地下鉄の堺筋本町から東方向に歩き、東横堀川を越えると、そこはかつての大坂城の城域であった西の惣構えである。
この場所から大阪城の外堀にかけて、松屋町筋、谷町筋、上町筋の3本の大きな道路が南北に通っている。
この場所から大阪城の外堀にかけて、松屋町筋、谷町筋、上町筋の3本の大きな道路が南北に通っている。
その一番西の松屋町筋を挟んで大阪商工会議所の向いに最近「SBラーメン 内本町店」が出来たので行ってみた。
ここのラーメンは「特製 とんこつ醤油 船場ラーメン」というラーメンである。
この辺りは大阪の船場の東の終点辺りである。
どんなご当地ラーメンが食べられるのか、興味津々である。
この辺りは大阪の船場の東の終点辺りである。
どんなご当地ラーメンが食べられるのか、興味津々である。
店の入口に券売機がある。
基本となる船場ラーメンは表の看板通りである。
価格は相場よりもはるかに安い。
半チャンのセットにしたとしてもワンコインで収まるのは嬉しい。
基本となる船場ラーメンは表の看板通りである。
価格は相場よりもはるかに安い。
半チャンのセットにしたとしてもワンコインで収まるのは嬉しい。
味は大丈夫か?と思いながら、ラーメンをカウンターで待ったのであった。
そう待たずにラーメンは出てきた。
博多の豚骨ラーメン風である。
博多の豚骨ラーメン風である。
スープはまさしく豚骨である。
しかし最近はやりの濃厚な豚骨スープではない。
スッキリと頂けるのは好ましい。
しかし最近はやりの濃厚な豚骨スープではない。
スッキリと頂けるのは好ましい。
麺は細麺のストレート、これシャキシャキとまでは行かないが、概ね良好である。
チャーシューは極めて薄い。これは値段相応なのであろう。
煮玉子は味がしっかり付いていて、まず合格である。
チャーシューは極めて薄い。これは値段相応なのであろう。
煮玉子は味がしっかり付いていて、まず合格である。
久しぶりにベーシックな豚骨ラーメンを食べた気にさせてくれた「船場ラーメン」であった。
2
このラーメン屋の斜め前は「マイドーム大阪」という展示施設である。
大坂城が江戸時代になって、徳川氏の政庁となり、大手門を出て外堀を越えて西の街中に入って行くと、武家屋敷と共に西町奉行所があった所である。
そして少し南の現在の本町通りを越えるのは本町橋と云う橋である。
但し現在の本町橋は100年前の大正時代に架け替えられたもので、大阪で最も古い鉄橋である。
また橋の上を覆っているように見えるのは東横堀川の上に敷設されている高架道路「阪神高速」である。
また橋の上を覆っているように見えるのは東横堀川の上に敷設されている高架道路「阪神高速」である。
この本町橋には、大坂冬の陣に纏わる話がある。
塙団右衛門(ばんだんえもん)と云う武将がいた。
織田家や豊臣家などに仕えていたが、関ヶ原の時、勝手な振る舞いをしたため浪人を余儀なくされ、また出家もし「鉄牛」と名乗った人物である。
織田家や豊臣家などに仕えていたが、関ヶ原の時、勝手な振る舞いをしたため浪人を余儀なくされ、また出家もし「鉄牛」と名乗った人物である。
大坂の役で浪人募集が始まるや、応募し、大坂城方の一部将として抱えられた。
大坂方と攻城方で和議の話がまとまりかけていたころ、本町橋の城側で守りについていた団右衛門は、本町橋の向こう側の蜂須賀至鎮(よししげ)の陣に夜襲をかけ、家臣中村右近を討ち取るなど戦果を挙げた。
大坂方と攻城方で和議の話がまとまりかけていたころ、本町橋の城側で守りについていた団右衛門は、本町橋の向こう側の蜂須賀至鎮(よししげ)の陣に夜襲をかけ、家臣中村右近を討ち取るなど戦果を挙げた。
その時団右衛門は本町橋の真ん中に床几に座り、大将らしく後方での指揮に徹したと云われている。
そして勝利を収めた後に、部下達に「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせ、自らを優秀な武将であると宣伝したと云われる。
これは、浪人になる前に仕えた加藤嘉明(よしあき)から云われた「大将の器でない」に反発する行為であったとも云われる。
これは本町橋の夜戦と云い、司馬遼太郎の小説「言い触らし団右衛門」の話にもなっている。
これは、浪人になる前に仕えた加藤嘉明(よしあき)から云われた「大将の器でない」に反発する行為であったとも云われる。
これは本町橋の夜戦と云い、司馬遼太郎の小説「言い触らし団右衛門」の話にもなっている。
しかしこの団右衛門、その後の夏の陣の時に、南から攻め上ってくる紀州藩主浅野長晟(あさのながあきら)に戦いを挑もうと、仲の悪かった岡部大学と先陣争いをし、その混乱の中で討ち取られたと云われる。
樫井川の戦いと云い、これら団右衛門の派手な活躍は、江戸時代の講談にて人気を博したと云われる。
大坂の陣の結果はご存じの通りである。
浪人中心の寄せ集め集団では、統制のとれた総合力を発揮する徳川集団に勝てなかったのは当然と云えば当然である。
浪人中心の寄せ集め集団では、統制のとれた総合力を発揮する徳川集団に勝てなかったのは当然と云えば当然である。
しかしながら、大坂方に付いた武将達は、それぞれ自らのスタイルの戦いをして、散って行ったことは、それはそれで良かったのでなないか、と思われる。