1
 ラーメンが多くなっているが、今回は福島県の喜多方ラーメンである。
おなじみの京都駅ビルの10階にある京都拉麺小路に出かけた。
ここには、札幌ラーメンから博多ラーメンまで幾つかの店があるが、今までに入ったことが無かった喜多方ラーメンの店「BN食堂」に入ってみた。
たまたまなのであろうが、この店だけが行列が無かったのが選択の理由である。
イメージ 1
 食券制なので入口で求め、店内に入ると運良く席が一つ空いていた。
着席し店員嬢に食券を渡すと、
「昼間はライスのサービスがありますが…。どうしますか?」
とのサービス案内があった。
「じゃあ、お願いします」
と、暫く待つことになった。
 5分ぐらいして喜多方ラーメンが出てきた。
ライスと漬物付きである。
イメージ 2

さあ、頂いてみよう。

 喜多方ラーメンは、あっさりしたスープと縮れ麺で、胃に抵抗感の少ない食べやすいラーメンであるが、近くには店は少ないので食べる機会はあまりない。
久しぶりである。
 スープを頂く。
豚骨の醤油味であるが、色は薄めである。
しかし東北のラーメンの特徴であろうか、少々辛い味である。
ライスを貰ったのは正解であった。
辛さを緩和しながら食べることができるのである。
 麺は少々の縮れ麺であるが、生の平打ち麺である。
これは美味い。
 チャーシューは、5枚乗っている。
柔らかくてトロトロである。
これも文句なしに美味い。
 少々の塩辛さはご飯でカバーし、総合して美味いラーメンと云える。
なんのかんのと言いながら完食したのであった。
 店を出ると数名の行列ができていた。
ラッキーを感じ、店を後にしたのであった。
                2
 さて、近くを探索してみよう。
京都駅から東に鴨川を渡って少し行ったところに、観光名所の通称三十三間堂、蓮華王院がある。
イメージ 3
 三十三間堂の裏側の回廊はかつての「通し矢」の舞台である。
回廊は端から端まで約120mある。
そして、庇の高さは5mくらいしかない。
 庇の下の5mの下で120mの距離を、それに2m半の横幅の廊下の上を矢をノーバウンドで通すのである。
120mと云えば丁度、野球場のセンターバックスクリーンまでの距離、ホームランを打つようなものである。
イメージ 4

ホームランはある程度高く上がらないと距離が稼げないが、通し矢は5mの下を通すので、ほぼ、平行に射なければならない。

 ということは力強く矢を飛ばさないと矢は途中でお辞儀して落ちてしまうことになる。
上に上げすぎると庇に当たってしまう。
矢のスピードも重要である。
弓を引く腕力と、記録には射続ける持久力が要ることになる。
 更に立った姿勢で射ると庇までの空間が少なくなるので、座った姿勢で射たのである。
座って力を出すのは極めて難しい。
 この競技は24時間の間に何本の矢を向こう側まで通過させたかを競うルールである。
相場は10000本以上射て、8000本位を成功させるという大変なものであった。

現在も新春には通し矢を模したイベントが行われる。
着物と袴で着飾った成人式を迎えた女子学生の弓を引く姿がテレビで放映される。

 しかし、かつての通し矢は今のそれとは似て非なるもの、そんな生易しいものでは無く、人の生死が賭かっていたのである。
 この通し矢、戦国時代のころから行われていたようであるが、江戸時代になって家康の肝入りで藩対抗の全国大会さながらのものになっていた。
現在の国民体育大会の様なものである。
記録を更新したチャンピオンを「天下一」と云い、その天下一の回数の上位3傑は尾張藩12回、紀伊藩12回、加賀藩10回となっている。
尾張、紀伊の御三家の競い合いに、加賀藩や伊達藩などの大藩が続く。
                                   3
 その時までの天下一は尾張藩の星野勘左衛門と云う人物で、8000本が天下一の記録であった。
その記録に紀州藩の若き藩士和佐大八郎が、リベンジと大記録に挑むことになった。
 大八郎の通し矢は1686年4月26日の夕刻、酉の刻、午後6時から開始された。
大八郎は19才になったばかり、新進気鋭のチャンピオンが誕生するのか?
久しぶりの噂の大物登場ということで、三十三間堂は満員御礼状態であった。

松明のほのかな灯りではあるが、通し矢は順調に進んだ。
夜が白み始める頃には、総矢数約5000本射て、9割方の通し矢数であった。
順調かに見えた。

 しかし、そんな甘いものではない。
夜明けとともにピタリと止まった。
弓を引くことが出来なくなったのである。
大八郎はゴロンと寝転んだまま、動かなくなった。
 誰もがこれで打ち留めと思って、ざわついていた時、編み笠の武士が現れた。
寝転がっている大八郎に何やら喋りかけながら、両の腕を触っていた。
 懐から懐紙に包んだ馬針のようなものを取り出すと、松明の炎に当てた。
更に片手で酒徳利を掴むと口に含み、馬針と大八郎の腕に吹きかけた。
そして両腕の鬱血を処置したのであった。
手馴れたものであった。
 血を取り出して止血包帯をする頃には大八郎、身が軽くなったのか、起き上がってきた。
暫くボーっとしていたが、やおら矢を番えて放ち始めた。
 6000本、7000本、8000本と放っていく。
命中率は少しは落ちたが、昼前には総矢数10000本以上放って、8000本の命中に届く勢いであった。
前のチャンピオン、星野勘左衛門の通し矢数は丁度8000本である。
これを越えるのは、もう時間の問題という風になってきていた。
 午の刻、正午の梵鐘が鳴るのと、8000本の太鼓が鳴るのと同時であった。
8001本の太鼓が打たれた時には、うお~ゥと歓声と拍手が宙を舞った。
若干19歳の天下一の誕生である。
 大八郎の目にも涙が浮かんだ。
矢は射続けるも、当らなくなった。
しばし静かに瞑目した。
これで止めようかと思った。
「勝負は終わった。これからの1本1本は殿を始め皆への恩返しである」
と思い直した。
 1本1本、丁寧に射た。
射るごとに拍手が起きた。
 終わってみれば、通矢数8133本、総矢数13053本の大記録であった。
 先ほどの馬針の遣い手も、見物客の中で涙ぐんでいた。
何を隠そう、それまでの天下一、星野勘左衛門その人であった。
 和佐大八郎は江戸時代の通し矢のチャンピオンである。
但し未だに記録は破られていないので、現在もチャンピオンである。