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 京都北白川ラーメン街道に10年前に誕生した「KR屋」の河原町三条店に行ってみた。
場所は名前の通り、京都市の中心街の河原町三条の交差点の少し北側である。
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 北白川と云えば、ラーメン大御所の「ますたに」や「天下一品」、「天天有」等がある。
鶏ガラベースの醤油味が北白川の基本であるが、その味に改良に改良を重ね、オープンしたのがこの
「KR屋」である。
今までの10年間で、東北から沖縄まで、甲信越、北陸、中国、四国、九州を飛ばし、50店舗以上の店を構えるチェーン店に成長している。
 鶏ガラだけでは濃厚な京都ラーメンの特徴は出せないのであろう。
ますたにの様に背脂を浮かべたラーメンとしている。
 背脂醤油ラーメンは、尾道のそれに良く似ている。
尾道の場合は魚介出汁なのでその違いはあるが、見た目は同一である。
あとは好みの問題である。
鶏ガラなのか魚介なのか、それとも豚骨なのか? それも問題であるが、それよりもトータルバランスで人気の高低が出るのがラーメンである。
 丁度、真昼の時間帯に訪問した。
テーブルは満席であったが、カウンターが2、3席空いていてラッキーであった。
早速の注文である。
基本となる背脂醤油ラーメンを注文した。
麺は堅め、背脂の量、葱の量は標準で頼んでみた。
 5分位待って、醤油ラーメンが出てきた。
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スープは醤油色であるが澄んでいる。
澄み具合は北白川系では一番であろう。

 背脂の量は思ったよりも少なめである。
これならば、多目にした方が良かったと思われる。
 さて、頂いてみよう。
先ずはスープ。
鶏ガラの澄んだスープであるが、少々鶏の香りがする。
これもそれぞれの好みであるが、何とも言えない。
背脂を多くした方が良かったかな? と更に思ったのであった。
 麺は、ストレートの細麺系、これは美味いと思う。
スープ、麺、具のチャーシューと交互に食べながら、完食した次第である。
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 KR屋の河原町通りの向かい側、三条通りと御池通りとの間に本能寺と云う寺がある。
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戦国時代に織田信長が襲われた本能寺事件の舞台の寺である。
 しかしながら、本能寺は織田信長が襲われた時にはこの場所には無かった。
ずっと西の堀川通りに近いところにあった。
その場所には、現在は確かな石碑が建てられている。
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 羽柴秀吉が邪魔者の明智光秀を政界から追い出し、更には目の上のタンコブである柴田勝家と信長の妹のお市の方を自刃に追い込んで、自らが京都を支配した時に、現在の場所に移動させられた。
 余談であるが、為政者の頂点の者が市民を自在に操ったのであるが、そのような輩は短時間のうちに葬られてしまうのは歴史の必然であり、現在にも共通であることは良くご存じの通りである。
 本能寺事件は起こるべくして起こった事件である。
天皇や朝廷を蔑ろにした信長に対して、朝廷に与するものが信長を弑いしようとしたのは当然の流れである。
信長殺戮事件を起こしたのは、通説では明智光秀と云われているが、本当は誰なのかは未だに良く分かってはいない。
秀吉が光秀と決め付け、仇討状況に持ち込んで正義を得ようとしたのがその全てであり、以降の天王山の合戦などを経て、秀吉が朝廷を上手く取り込み、頂点に登り詰めたのに過ぎない。
 現本能寺には、信長の墓もある。
それはそれで好ましいことである。
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 旧本能寺の北には阿弥陀寺と云う寺院があった。
この寺院も現在は本能寺のずっと北の、同じ寺町通りに移動させられている。
 阿弥陀寺は信長と兄弟同様に育てられた清玉上人が住持を務めていた寺院である。
信長が襲われたという報に触れた上人は、すぐさま本能寺に駆け付け、信長を自寺に連れ帰り懇ろに弔ったと云われる。
上人が駆け付けた時には、もう誰も居なかったのである。
 仮に光秀が、世間で言われているように大軍を引き連れ信長を襲ったとするならば、その大軍は短時間で何処へ消滅したのであろうか?
殺人のプロ集団たちが襲い火を付け、サッと引き揚げ、引き続き信長の息子で跡継ぎの信忠のいる二条陣屋に向かって行ったのだからこそ、誰もいない筈である。
 このような舞台が三条界隈に引っ越して来ている本能寺である。
 又、江戸から明治に代わる政権交代の時、坂本竜馬が海援隊の屯所としていた酢屋、そして襲われ暗殺された池田屋、佐久間象山が暗殺された高瀬川もこの界隈にある。