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 京都府北部宮津市は日本三景の観光地「天の橋立」で有名な所である。
この宮津のソウルフードに「カレー焼きそば」がある。
一度食べてみないと、と思いJRと「京都丹後鉄道」を乗り継いで宮津駅へ行ってみた。
 余談であるが、京都丹後鉄道は今年の5月までは「北近畿タンゴ鉄道」の名称で親しまれていた旧国鉄からの移行の第三セクターで、福知山―宮津間の宮福線、宮津―西舞鶴間の宮舞線、宮津―豊岡間の宮豊線の3線区を持つ鉄道である。
 宮津駅から西へ向かう。
駅から大手川手前にかけては、かつて宮津城があったところである。
川に至る手前の病院の横に、城の遺構が置かれている。
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中央の大きな石は黒鉄門の袖石、下の丸い窪みのある石は大手橋橋脚の礎石、左下の小さな石は波止場の船繋ぎ石とのことである。

 さらに川まで出て、川べりを少し遡ったところの小学校の校門に城門が保存されている。
馬場先御門の太鼓門である。
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 宮津城は、元々はこの地を支配した一色氏の城であったが、織田信長の家臣細川藤孝と明智光秀に侵略されて滅ぼされた。
そして細川藤孝、忠興父子には丹後国を、明智光秀には丹波国が与えられ、それぞれ宮津と福知山に城を築いたのであった。
 城はこれくらいにして、目的地へ急ごう。
大手川を渡り、宮津市役所の前を通過し、京都へ向かう京街道を渡ると道は路地の様に細くなる。
見通しも悪い。
迷いながら、やっとのことで「ERN」というカフェ風の店に到着した。
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 ドアの横には「カレー焼きそば」の表示もある。
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 カウンターとテーブルの店である。
昼は喫茶店、夜は居酒屋という雰囲気の店である。
先客はテーブルの1組だけである。
カウンターに座って、迷わず店員嬢に「カレー焼きそば」を注文したのであった。
すると、
「ドライとスープ多めがありますけど、どうしますか?」
と聞かれたので、
「スープ多めでお願いします」
と、暫く料理を待つことになったのである。
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 かなり待ったかも知れない。
やっとのことでカレー焼きそばが出てきた。
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見た感じはカレーラーメンのスープ少なめで、半分くらいの露出型である。
麺に混ぜて焼かれているのは、キャベツ、ピーマン、モヤシ、イカ、背油?、などである。
そして頂点にカレーならではの福神漬が乗せられている。

 さて頂いてみよう。
先ずはスープ、少し辛めである。
麺はラーメンとは違い炒められてるので、少しの香ばしさがある。
モヤシやイカは麺と絡まって絶妙である。
「残ったスープにご飯を入れると美味しいですよ」
と店側からのアドバイスがあった。
「そうでしょうね。お腹がいっぱいでなけば頂きます」
リゾット風で美味いと思うが、焼きそばだけで腹一杯になりそうであり、保留である。
 スープ、麺、具を交互に食べていると何やらラーメンを食べているような感覚になる。
しかし麺は焼きそばである。
ご飯追加は無しで、最後まで美味しく頂いたのであった。
 店を後に駅に戻ることにする。
別の道を辿ると市役所の南側に出た。
市役所裏の大手川の川縁に公園があって、大きな像が建っている。
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良く見ると細川ガラシャの像である。

 そしてその公園の前にキリスト教会もある。
明智光秀の娘で細川忠興の妻となった玉の像は、対岸の宮津城の跡を眺めている。
 本能寺事件で、明智光秀が信長を襲った犯人とされ、光秀が秀吉に討ち取られてからは、玉の悲運な生活が始まった。
忠興は秀吉の威光を気遣い、玉を丹後半島の中央部で山奥の味土野に幽閉したのであった。
 2年ほどして秀吉の取り成しで幽閉が解かれ、玉は大坂の細川屋敷に住むことになった。
その後、宮津に何度か戻ったりして、何人かの子を出産した。
そして、キリスト教に入信し、洗礼名ガラシャを貰ったのであった。
 その頃から宮津に教会を建てたいという願いをガラシャは持つようになったと云われる。
しかし関ヶ原の戦いの前夜、石田三成から人質を強要され、止む負えず大坂細川屋敷で最期を遂げたのであった。
 ガラシャの願いは長い年月を経て、現在宮津キリスト教会として実現されているのを見たのであった。