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 和歌山市の海岸べりに和歌浦(わかのうら)という地域がある。
半島の付け根付近の辺りを云い、半島の先端にかけては雑賀崎(さいかざき)と云う所である。
和歌浦は、西国三十三ヶ所で知られる紀三井寺駅から西方へ和歌川を渡り、20~30分の距離である。
 その雑賀崎と云えば、戦国時代に雑賀孫一を領主とする雑賀一族が、根来寺の僧兵勢力と同盟を結び、織田信長や羽柴秀吉と戦ったことで知られている。
 またもっと古くには、万葉歌人の山部赤人が、
「わかの浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」
と詠ったように、風光明媚な海岸線であった。
現在も赤人の歌から命名された片男波と云う天橋立の様な砂嘴を伴っている。
 和歌浦と云えば漁港である。
紀伊水道を漁場として、かつては和歌山藩城下、現在は和歌山市海南市に魚介類を供給している。
 全く知らなかったが、その和歌浦漁港に土日祝のみ営業の「おっとっと広場」という魚介類の販売や食事処が2~3年前にオープンしている。
たまたま通りかかった時に、賑わいのある場所があったので、寄って見るとそれであった。
 漁協の倉庫を改造したような建物である。
中に入ってみると7~8軒の屋台風の店が並んでいる。
 丁度昼時であったので、何か和歌浦らしいものをと順番に回ってみた。
 行きついたのは「しらす丼」の店である。
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店で接客嬢に聞いてみた。
「しらすは何処にでもあるけど、ここのしらすはどう違うの?」
「しらすも色々あるけど、わか(和歌浦のこと、語尾にアクセント)のしらすはね、茹でても色が飛びっきり白いんや」

 しらす丼とかき揚げ丼の2種類がある。
「両方食べたいな…」
「それならしらす丼を食べながら、かき揚げを齧ったら良いんや。用意するさけ、ちょっと待ってておくれな」
と席に案内されて、店の横の臨時席に案内されて待つことになった。
 先ず出てきたのはしらす丼、確かに色は白い。
トッピングはしらすの上に、千切りの大葉と海苔、そして中央に梅干し1個である。
そして醤油メインの出汁が掛かっている。

続いて、紙に包まれたしらすのかき揚げ、これは手渡しである。
しらすと人参や玉葱や緑色をミックスしたかき揚げである。

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 さて、頂いてみよう。
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 丼は、ご飯、しらす、海苔、大葉と出汁も付けて五味一体で食べると、美味しい。
しらすだけつまんでも、魚の臭みは無く、スーパーのしらすとはずいぶん違う。
 かき揚げであるが、これは絶品である。
全体に柔らかく全く抵抗感が無い。またかき揚げもほぐれたり壊れたりはしない。
やっぱり現地のものは美味いんだ、という感覚で瞬く間に完食したのであった。
 腹も膨れたところで、2、3回ってみよう。
和歌浦湾を取り囲んでいる山の中腹に、和歌浦天満宮、そして紀州東照宮が鎮座している。
先ずは漁港に近い天満宮である。
 菅原道真公が九州大宰府に左遷された船旅で、この地に立ち寄ったと云われのあるところである。
大宰府で道真公が死去した後、参議橘直幹が大宰府から帰京する途中に和歌浦へ立ち寄り、この地に神殿を建て道真の神霊を勧進して祀ったのがこの天満宮の始まりとされる。
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 天満宮へは下の鳥居を潜り、自然石を切り出して造られた石段を直登する。
 見事な楼門が迎えてくれるが、息も絶え絶えである。
暫く門の下で眼下の景色を見ながら休憩である。
和歌浦湾の湾岸には、和歌山マリーナシティ―の高層ホテル、その向こうに高い煙突の火力発電所が見える。
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 立派な本拝殿である。
楼門などと合わせて重要文化財とのことである。
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これらは紀州徳川家ができる前の紀州藩主浅野氏の建立である。

 天神山の山頂まで登れるそうであるが、そんな元気は無い。
ご朱印を頂き、下山したのであった。
 引き続いて、紀州東照宮である。
ここは徳川家の墓所なので、整備も行き届いている。
鳥居を潜り暫く平地の参道を歩く。
 この紀州東照宮には、東照大権現の家康公、南龍大神の紀州徳川家初代の頼宜公が祀られている。
この東照宮は頼宜公が紀州に入国した時から計画されたらしい。
 ここも同じように長い石段を直登することになる。
しかし石段は綺麗に加工された石である。
隣の天満宮との対抗意識であろう。
 楼門も本拝殿もかくの如し。
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整備された抜け目のないものである。

 背後の山は雑賀山と云う。
信長や秀吉と対立した雑賀衆や根来衆は徳川が重用したことは良く知られている。
特に鉄砲の技術は、他を寄せ付けることは無いほどであった。
 結局、徳川は良いとこ取りで治世を確立し、それなりに長く続いたのであったことが伺ええる東照宮である。