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蕎麦処で知られる越前の国、福井県のそばを食べさせてくれる店にお邪魔した。
京阪電車と地下鉄との乗換の淀屋橋駅の途中下車である。
「IJそば」と云う店は地下道を歩いてビルの2階に上がった所にある。
料理は迷わず「おろしそば」である。
ソースかつ丼が付いているランチ仕立てのメニューもあったが、そんな量は食べられないので、蕎麦だけにした。
ソースかつ丼が付いているランチ仕立てのメニューもあったが、そんな量は食べられないので、蕎麦だけにした。
待つこと10分ぐらいか、おろしそばが出てきた。
皿に盛った蕎麦麺の上に、刻み葱、刻み海苔、そして鰹の削り節である。
出汁の器には、醤油出汁と大根おろしがたっぷりと入っている。
大根おろしが麺にトッピングされているのかと予想したが、そうでは無かったのが意外であった。
出汁の器には、醤油出汁と大根おろしがたっぷりと入っている。
大根おろしが麺にトッピングされているのかと予想したが、そうでは無かったのが意外であった。
そんなことよりも、さあ頂いてみよう。
辛味大根に加え出汁も辛かったら取り返しがつかないと思い、最初は出汁を少しだけ掛けてみた。
薄い味である。もう少し濃さが欲しい。
更に掛けてみた。やはり不足である。
今度は汁椀の7割が掛けて、麺全体が浸るようにしてみた。
そると丁度良い濃さとなった。
そると丁度良い濃さとなった。
どのような食べ方が正解なのかは良くは分からないが、最後まで美味しく頂いたのであった。
少しだけ越前のそばの歴史を紐解いてみる。
越前の蕎麦は、戦国時代に朝倉氏が領主であった時から蕎麦の栽培が奨励されていた。
しかしその後、転機になったのは、関ヶ原の戦いの翌年、越前に新しい城主結城秀康(家康の息子)が入封した時、家老として武生の府中城に入った本多富正が京都から高名な蕎麦師「金子権左衛門」を招聘したのが越前蕎麦の始まりである。
しかしその後、転機になったのは、関ヶ原の戦いの翌年、越前に新しい城主結城秀康(家康の息子)が入封した時、家老として武生の府中城に入った本多富正が京都から高名な蕎麦師「金子権左衛門」を招聘したのが越前蕎麦の始まりである。
富正の奨励と蕎麦師の妙技により、平打ち太麺の蕎麦に大根おろしを添えた「越前おろし蕎麦」が誕生したのであった。
そして越前市やその南側の山麓の町、南越前町は蕎麦が当地グルメとして現在に伝えられるまでになったのであった。
特に今庄では山間の気候であるため、寒暖の差と雪解け水により美味い蕎麦が出来上がったとされる。
特に今庄では山間の気候であるため、寒暖の差と雪解け水により美味い蕎麦が出来上がったとされる。
2
蕎麦はこれくらいにして、折角であるので淀屋橋駅近辺の名所を訪ねてみよう。
駅の北側の御堂筋の土佐堀川に架かっている橋は淀屋橋といい国の重要文化財である。
駅の北側の御堂筋の土佐堀川に架かっている橋は淀屋橋といい国の重要文化財である。
淀屋橋を渡って中之島に入ると、右手は大阪市役所、左手は日本銀行大阪支店である。
その先には今度は堂島川を渡る大江橋が架かっている。これも重要文化財である。
その先には今度は堂島川を渡る大江橋が架かっている。これも重要文化財である。
次は市役所の裏側である。
大阪府の中之島図書館がある。
一時、大阪府知事と大阪市長の間で存続が議論されたようであるが、何も決まらないまま存続されているのは嬉しいことである。
この建物も重要文化財であり、次に出てくる辰野金吾氏の弟子の野口孫市らの設計である。
一時、大阪府知事と大阪市長の間で存続が議論されたようであるが、何も決まらないまま存続されているのは嬉しいことである。
この建物も重要文化財であり、次に出てくる辰野金吾氏の弟子の野口孫市らの設計である。
その図書館の裏には中之島公会堂がある。
正式には大阪市中央公会堂と云い、この建物も重要文化財である。
この建物は、株式仲買人である岩本栄之助氏が公会堂建設費として当時のお金で100万円を寄付したことにより建てられたものである
東京駅や日本銀行を設計した辰野金吾と大阪商工会議所会頭を務めた片岡安が実施設計を行った見事なものである。
公会堂の前は「なにわ橋駅」である。
そこから電車に乗り、ミニ旅は終了したのであった。