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 「大阪名物岩おこし」、昔から聞きなれたフレーズである。
梅鉢紋のデザインに「岩おこし」「粟おこし」と書かれた図柄は大阪の駅やデパートの土産物コーナーでは良く見かける。
最近では他の土産物に押されてはいるが、かつては大人気であった。
 今回は、この岩おこしを訪ねて、大阪市営地下鉄の西長堀駅で途中下車した。
西長堀には老舗の一つ、あみだ池DK堂があり、訪ねて見ようと思ったからである。
 西長堀駅は大阪市西部にあり、南北の新なにわ筋と、長堀川を埋め立てた東西の長堀通りの交差点にある。
新なにわ筋の1つ東側の道はあみだ池筋という。
 DK堂の場所が良く分からないまま、あみだ池筋を行ったり来たり…。
近くに幼稚園か何かがあるらしく、子供連れのお母さん方がぞろそろと…。
聞いてみるが、分からない。
コンビニでも聞いてみた。分からない。
 岩おこしは後回しにして、あみだ池筋というネーミング由来のあみだ池を訪ねて見ることにした。
あみだ池という池は、駅近くの和光寺という寺の境内にある。
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長径40mぐらいの小判型で、池の中央には放光閣という宝塔があった。

 一説によると、日本最古の仏像と云われる長野の善光寺の本尊・阿弥陀如来が、朝鮮半島百済国より仏教伝来とともに伝わったのであるが、仏教をよしとしない物部氏によりこの池に棄てられたという。
 それを信濃国司・本田善光がこの池より救った。
それ以後この池があみだ池と云われるようになったとのことである。
救い出された阿弥陀如来はその後、長野の善光寺に祀られたと云われる。
奈良時代よりも少し前の飛鳥時代のころのことである。
 歴史はこれくらいにして、再びD堂を探す。
空き地に古い地図看板があった。大雑把なものであるが、これしかない。
和光寺が載っている。DK堂も書かれている。
これを頼りに歩いてみた。
 見つけた。
店の前まで行かないと分からない。
ファミレスの駐車場に隣接したこじんまりした本店であった。
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 早速、岩おこしを買い求め、店員さんに話を聞いてみた。
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「ここがD堂さんの創業の地と聞いて来たんですが、どうしてここなんですか?」
「江戸時代はですね。ここは木津川が流れていて、荷物の集積地だったんですよ。良質の米と水あめがここで手に入ったので、ここでおこしを作ったそうです。通りの向こう側の中央図書館の裏に、土佐公園、土佐稲荷がありますよ。そこは土佐藩の屋敷だったんですよ。」

「へえ~ェ、そうなんですか。後で行ってみます。ところで、岩おこしと粟おこしはどう違うんですか?粟とかを使ってるんですか?」
「いえいえ、うちは全部お米です。米を挽いて水あめで固めて作ります。粒の大きさで、細かいほうが岩おこしです。細かいと堅いから、岩おこしと云うんですよ。粗いほうは丁度、粟を固めたように見えるから、粟おこしという名前にしたようです…。」
「なるほどね…。良くわかりました。もう一軒、古い店がありますよね…。二ツ井戸の何とかさん。当時は関係があったんですか? 同じ店から別れたとか…?」
「いや、何も関係は無いようですよ…。別々と聞いてますけど…。」
 これだけ聞けば十分であった。店を後にした。
 岩おこしは、古代からあると云われている。
穀物の加工品として、遺跡から出土することもあるらしい。
奈良時代には糒(ほしいい)を蜜で固めたものが豊作祈願として神に捧げられたと「日本書紀」に書かれている。
 平安時代には、貴族に愛好され、江戸になるとおこしの製法が広められ、庶民にも親しまれるようになったと云う。
商売として成り立つと云うことから、数軒のおこし屋が創業したのであった。
 しかし、江戸時代には米はまだ高価…。「粟」や「ハトムギ」を加工していたが、それは商売の大阪、米で上手く造って繁盛したのであった。
 岩おこし、粟おこしには、梅鉢の紋がデザインされている。
太宰府に流される菅原道真が、悲痛な面持ちで船を待っていた時に、同情した里人達が菓子を道真公に献上したと云う。
感謝した道真公は菅家の梅鉢の紋が入った自分の着物の袖を老婆に与えた、というのが謂われであるとか…。
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 またおこしの名の由来は、大坂城築城と関係があるらしい。
「おこしは、身を起こし、家を起こし、国を起こす」縁起の良いお菓子として大阪名物になったと云われる。そして明治になって、日露戦争の時に明治天皇より戦地の兵隊に菊の紋章入り「恩賜のおこし」が大量に配られたと云われる。
このおこしが兵隊さん達に非常に好評であった。
帰国の後に「おこし」を大阪で求める風潮が高まり 「おこし」が大阪名物として、そして全国に認知されることになったと云われている。
 また、近くは大阪万博でおこしが飛ぶように売れ、どのメーカーも徹夜操業が続いたとも云われる。
 新なにわ筋の向こう側へ行ってみた。
案内された通り、確かに土佐公園、土佐稲荷神社がある。
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稲荷神社の境内にある説明看板によると、土佐藩蔵屋敷跡とある。

 まずお参りして境内を探索してみる。
三菱マークの入った燈篭があった。
何だろうと思って、付近を探すと、岩崎弥太郎の旧邸跡の碑があった。
廃藩置県により不要となった土佐藩蔵屋敷を土佐の岩崎弥太郎が譲り受け、邸宅とするとともに三菱を創業した場所であったとは、驚きであった。
 沢山の発見があった西長堀のミニ旅であった。