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 またもや神戸元町駅で途中下車した。
神戸には中華街、南京町と云う所がある。
元町の商店街からほんの少し海側に入ったところである。
 若い時代には何回かいったが、近年はなぜか行っていなかった。
 気になっていたのは、南京町のほぼ中央にあるR祥記という店である。
かつては何時に行っても店の前に行列ができていた。
並ぶのが嫌な小生は、いつも横目で見ていただけであったのであるが…。
 震災以降、街全体が綺麗に復興されていると聞いている。
どうなっているか一度見て見たかったのである。
 元町駅で下車して、中華街のそのあたりに行って見た。
東と西の入り口に、立派な門ができている。
東の門は長安門、西は西安門と云う。
門と門を繋げる横の通りは南京路と云い、かつてとは様変わりしたような綺麗な店が並んでいる。
そして、客を呼び込む店員さんの声も一段とトーンが上がっている。
 真中に広場ができていて、中国風の建物「あづまや」もできている。
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 2層式の屋根と朱塗りの柱で、異国情緒を醸し出している。
そして、かわいいモニュメントも建っている。
 R祥記の店は同じ場所にあった。(と思っているが…)
店の正面は綺麗になっているが、昔の面影は残してはいる。
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 しかし、残念なことに、その日は休業日であった。
店前で店の人であろう…。
「今日は前の曹家包子館(ソウケパオツーカン)で販売してます…。そちらへどうぞ…」
と案内していた。
 同じものが手に入るならいいかと思い、前の店へ方向を変えた。
やはり行列である。
この店は今日はお持ち帰りだけの販売と云うことであった。
これだと速いなと思い、行列に並んだ。
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 待つこと10分位か? 順番が回って来た。
『3個以上お買い上げください』と掲示されている。
1つの大きさはそんなでもないので、3個買っても大丈夫であろう…。
 注文して順番が来たので受け取った。
店前のベンチに座り、早速味わうことにする。
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 腹が空いていたこともあって、たちまち平らげてしまった。
小腹がすいた時の間食ぐらいの量であり、食事と云うには不足する。
 中身は豚バラ肉のミンチに臭い消しとしてネギを醤油で味付けしたものを加えていると云うことである。
そしてここの豚まんの秘密は、第2次世界大戦や阪神大震災を乗り越え、受け継がれてきた秘伝の『皮』であるとのことである。
 そう云われると皮はシットリ軟らかであるが、それなりに食感ありだった。
これが、元祖豚まんの味なのかと、感慨を新たにした次第である。
 ここのR祥記の初代(現在は3代目である)は大正の時代に、中国天津地方の天津包子(ケンチンパオツー)と呼ばれる饅頭を、味も名前も日本人に馴染むものにしようと考え『元祖ぶたまん』を生み出したとのことである。
大正四年のことで、日本で最も早い豚まんの考案であると云う。
『神戸のぶたまんじゅ屋』と呼び親しまれてきたこの店、R祥記という名が広く知られるようになったのは最近のことであると云う。
開店当時は、中国の人達が故郷の味を懐かしんで集まる憩いの場でもあったとも云われる。
 日本における豚まんの起こりは上述の通りであるが、本家中国ではどうであったろうか?
それには三国志演義の記述を辿らなければいけない。
 三国の一つ蜀の諸葛孔明が南蛮征伐をして後、都である成都に帰る時、大河が氾濫して立ち往生した。
土地の古老の話は「人間の生首を差し出せば河の主の怒りが収まる」であった。
しかし、そんな野蛮ことはできない。
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 機転を利かせた孔明は、麦粉の皮に肉の詰め物をしたもの作り、荒れた大河に流したところ氾濫が収まったと云われる。
これが最初であると書かれている。
 真偽はともかく、中国では紀元前からこのような饅頭が作られていた。
 話変わるが、関東地方では、豚まんと云う云い方に馴染みが薄いと思われる。
関東では豚肉のことを単に肉と云うので、豚まんのことは「肉まん」あるいは「中華まん」と呼ぶのが一般的であろう。
豚まんという響きは、飾らない関西独特の食文化なのかも知れない。
 最後に余談である。
このR祥記より西の元町商店街5丁目あたりに「R祥紀」という店がある。
チェーン店とも思うが、屋号の紀の字が違い、関係は何もないとのことである。
創業も同じ大正4年、商品も似ているようである。
 どちらがどうなのかは、興味あるところである。
前を通ってみたが、それ以上の詮索はしていない。