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 和歌山県の九度山町に真田庵という寺院がある。
正式には善名称院(ぜんみょうしょういん)と云う。
場所は奈良県から流れて来る吉野川が紀ノ川と名前を変える辺りの左岸と、その紀ノ川に注ぐ丹生川の右岸に挟まれたところである。
 真田庵は戦国武将の真田昌幸・幸村親子が隠棲した所でその名前がある。
真田親子は関ヶ原の戦いの時、中仙道を西上する徳川秀忠の軍と信州上田にて戦い、足止めしたとして高野山に幽閉との処置が下されたが、しかし高野山は女人禁制、妻を連れていたため、高野山には入れず、麓であるこの寺に隠棲の庵を構えたのであった。
 先日、この真田庵を訪れてみた。
 南海電車高野線の九度山駅から10分程歩いたところにその真田庵はある。
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 境内には、隠棲中にこの地で亡くなった昌幸の墓や真田の家臣の墓、そして真田家の家宝である毘沙門天と真田三代の御霊を合祀した真田地主大権現が祀られている。

その他にも与謝蕪村の句碑「炬燵して語れ真田が冬の陣」「かくれ住んで花に真田が謡かな」、他にも信憑性は疑わしいが、幸村が真田庵に落ちた雷を井戸に封じ込め、里人を救ったと云われる「雷封じの井戸」などがある。

 一通りの見学を済まして昼になったので、この辺りで昼食にしようと真田庵を出た。
旨い具合に隣の敷地に蕎麦屋さんがあった。
「YM庵」と云う。
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 和歌山県内では蕎麦と云うのはあまり見かけない。
恐らくは蕎麦を食べると云う県民性では無いのであろう…。
 しかし、この辺りは真田幸村に関係して信州の匂いがするところである。
幸村がそばを持ちこんだのか?
店の名前からして信州蕎麦であろう、との期待を抱き入店した。
 YM庵は古民家をリニューアルしたような感じの蕎麦屋である。
玄関の上り框から手前の座敷そして左右や奥の座敷へと店内は広がっている。
襖は外されているので広い。そして和風卓が10卓ほども並べられている。
客はほぼ満員、ラッキーにも一つだけテーブルが開いていてそこへ案内された。
床の間の前の庭が見える一等地である。メニューを眺めてみる。
単品の温かい蕎麦・冷たい蕎麦そして一品料理に加えて、幸村御膳などの御膳料理と云うセット料理もあり、蕎麦の料理は一通り揃っている。
その中から温かいかけ蕎麦と冷たいざる蕎麦の両方が楽しめる「霧隠才蔵御膳」をお願いして、暫く待った。

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 出てきた出てきた。
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 先ずは蕎麦の味を味わうべく、ざる蕎麦から…。
ざるとは云え蕎麦は陶器の皿に盛られている。
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 口にしてみると紛れもない信州そばの味である。
二八蕎麦と云う触れ込みである。
腰のある噛み応えもあり、美味しく頂いたのであった。
 次はかけ蕎麦で、出汁の味を楽しもう…。
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 辛くもなく甘くもなく、鰹風味の味であって、これも満足した。
このYM庵の蕎麦は紛れもない信州そばと思われたのであった。
 後になって分かったことであるが、真田庵のある九度山町と真田の城があった信州上田市とは真田繋がりで姉妹都市となっている。
このYM庵は姉妹都市当局とその関係者の努力で、今から4年前にオープンしたものである。
コンセプトに「真田幸村が伝えたとされる信州そばを400年の時を越えて復活させた」を掲げ、九度山の有志の人達が上田へそば打ちの修行に行き、本格的な信州そばを勉強してきたとのことである。
 真田幸村は大坂の陣を間近に控えた時、この九度山から担ぎ出され、子の大助とともに大坂城に入った。
そして幸村は上田の国許にいる家臣たちを呼び出し、赤備えの真田隊を再び立ち上げたのであった。
 大坂冬の陣では、大坂城の城外南部に真田丸という出城を構え、城内とは抜け穴で行き来していたと云われる。
幸村隊は勇猛に闘ったが、徳川方に城内に大砲を撃ち込まれることになり、冬の陣は城方不利の講和で一旦終結した。
 翌年の夏の陣では籠城戦に固執した城方幹部の意見を入れず、城外に討って出た。
天王寺茶臼山に陣を構え今度も勇猛に闘った。
家康の本陣を襲い、もう少しで仕留める所まで行ったが、家康逃亡の後、徳川方の松平忠直隊に攻められ、安居神社の境内で最期を迎えるという結末となったのは良くご存じのことと思われる。
 今年来年は大坂の陣から丁度400年、幸村を偲ぶ年でもある。