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 『汽笛一声、新橋を はや我汽車は離れたり
愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として』
 今なお健在なメロディー『鉄道唱歌』である。
JRのアナウンスチャイムには、よく使われている(いた)ので、良く御存じかと思う。
 途中下車のミニ旅、100話達成記念として、京都の梅小路蒸気機関車館を訪ね、ミニ旅でお世話になっている鉄道の歴史を振り返って見ることにする。
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 我が国で鉄道建設の気運が高まって来たのは、江戸末期、黒船ペリーの2度目の来航の時、幕府への手土産として、蒸気で動く鉄道模型を持ち込んだ時であった。
人間も乗れるので、幕府の役人が恐る恐る乗ったと云う。
 その後、イギリスからも、中国へ納品する蒸気機関車が長崎に持ち込まれ、1ヶ月ほど、デモ走行したと云う。
 具体的に鉄道熱が形をなしてくるのは明治になってからで、明治2年、廟議で東京~京都間の幹線と東京~横浜、京都~神戸、琵琶湖~敦賀の3支線の建設が決定された。
 しかし、いつの時代でも反対はつきものである。
薩摩の西郷隆盛などは軍備を優先すべきという立場で反対した。
それではと云うことで、手始めに翌年から新橋(汐留)~横浜(桜木町)の建設のみで、なされることになった。
 計画は完璧なものを狙っていた様だが、予算の関係と住民の反対により、枕木は木製に鉄橋も木製に変更されたのであった。
そして線路も薩摩藩邸のあった芝・品川は海上に堤を設け、線路を敷設したと云う事であった。
 身勝手である。
島津公は推進派ではあったと云うが…。
全長のうち3分の1が海上というのも珍しいことである。
機関車・客車台車はイギリスから買い付け、客車の造作は日本の大工技術が駆使されたと云う。
 余談であるが、木製の橋は多摩川に架かっている六郷橋であった。
しかし老朽化が激しく、5年ほどして鉄製の橋にに架け替えられたと云う。
 明治5年の10月14日に天皇のお召列車が運転され、翌日から営業運転が開始された。
この10月14日は今でも鉄道記念日とされている。
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 それなら、関西の鉄道は何時か? 明治7年である。
大阪~神戸間の営業が開始された。
鉄道建設の課題は、六甲山から流れ出るいくつかの天井川をどうするか?
それは川底トンネルでくぐったそうである。
神戸の石屋川底トンネルは、日本最初の鉄道トンネルであったとされている。
 その後、大阪から京都に向けて線路が延びた。
明治9年に、京都・大宮仮駅が出来た 梅小路蒸気機関車館のところである。
 明治10年に今の京都駅の北側まで伸び、開通したのであった。
七条ステーションと言った。
天皇の行幸も得て、開通セレモニーが挙行された。
 その後、大津に向けて線路は延びて行くが、当時はトンネル掘削技術がない。
京都から南へ下がり、伏見大社の南の現在の名神高速のあたりを東へ越え、山科へ向かった。
逢坂の関の手前、大谷まで開設され、その後大津まで行ったのであった。
これが後に開通する東海道本線の一部となる。
 東京~京都間は、計画では中仙道に沿うと云う計画であった。
それは、海運との競合を避けたためではあったが、名古屋を通すべしという強い要望があったため、海岸沿いになったと云う。
岐阜~京都は中仙道沿いで建設された。
もちろんトンネル掘削技術がないので、丹那トンネルなどは無く、御殿場経由、今の東名高速ルートであったことは云うまでも無い。
明治22年に、めでたく東海道本線、東京~神戸間が開通したのであった。
 いよいよ我が国の鉄道は黎明期を終え、発展期に入って行くのであった。
 またまた、余談である。
実は、日本の鉄道には大きく分けて2種類の線路の幅がある。
当時、新政府の財政担当をしていた大隈重信は、よくわからないまま、欧米と違う狭い方の狭軌を採用してしまったことを、一生の不覚と反省していたそうである。
 しかし、物は考えようである。
欧米と同じであったなら、今もって欧米製の輸入車両が日本の鉄道であったろう。
航空機と同じ運命を辿っていたと思われる。
 狭軌という高速走行に不向きなものを選んだ故、欧米に負けじと日本の技術者が頑張ったのである。
その結果、日本の鉄道は世界一の技術になったと云われる。
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 日本の鉄道には、狭軌、広軌が混在する。
過去には人車軌道なるものも存在した。それは超狭軌であったがここでは割愛する。
 JRには、在来線は狭軌、新幹線は広軌と別れている。
私鉄にも東京メトロや関西の近鉄電車では狭軌、広軌の両方が混在する。
その他、小田急・西武や名鉄や南海は狭軌、阪急・阪神などは広軌である。
それぞれの路線の歴史を物語っているが、これも詳細は割愛する。
 長くはなるが、最後に大和田建樹作歌の鉄道唱歌に乗って、東海道線の関ヶ原から神戸までの旅を楽しんでいただきたい。
 36番『天下の旗は徳川に 帰せし戦の関が原
草むす屍いまもなほ 吹くか伊吹の山おろし』
天下分け目の激しい戦いが繰り広げられたところである。
今も尚、神妙な気配がするところとなっている。
 37番『山はうしろに立ち去りて 前に来るは琵琶の海
ほとりに沿ひし米原は 北陸道の分岐線』
北近江への分岐点である。
浅井の小谷城、越前朝倉の一乗谷、信長軍に攻められ燃え上がった。
 40番『瀬田の長橋横に見て ゆけば石山観世音
紫式部が筆のあと のこすはこゝよ月の夜に』
式部はこの瀬田川沿いの石山寺で、京都の暑い夏を避け、避暑がてら源氏物語を書き続けたのであろう。
 41番『粟津の松にことゝへば 答へがほなる風の声
朝日将軍義仲の ほろびし深田は何かたぞ』
いち早く軍を集め京都に駆け付けた義仲軍であったが、頼朝・義経たちに滅ぼされてしまったのは、歴史の宿命だったのか?
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 44番『むかしながらの山ざくら にほふところや志賀の里
都のあとは知らねども 逢坂山はそのまゝに』
大海人皇子が壬申の乱を起こした天智天皇ゆかりの近江宮である。
勝利した皇子は奈良に帰って、天武天皇として即位するのであった。
 45番『大石良雄が山科の その隠家はあともなし
赤き鳥居の神さびて 立つは伏見の稲荷山』
大石内蔵助は山科神社の隣、現在の大石神社の地に住んでいた。
ここで情報収集と討ち入りの決意を固めたと云われる。
東海道線が伏見稲荷の門前を通過していたことを物語る歌でもある。
 46番『東寺の塔を左にて とまれば七條ステーシヨン
京都々々とよびたつる 駅夫のこゑも勇ましや』
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 当時の京都駅は家康の建てた東本願寺と現在の駅との間にあった。
当時、鉄道職員は士族が多かったため、勇ましいのではあるが、態度がデカかったそうである。
この後、京都を歌う歌が7番続くが、次の一つだけの紹介に留める。
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 51番『琵琶湖を引いて通したる 疏水の工事は南禅寺
岩切り抜きて舟をやる 智識の進歩も見られたり』
琵琶湖疏水を引いて、発電所を作り、その電力で京都市電を開設するなど、京都の産業興隆を大いにはかったのであった。
 54番『山崎おりて淀川を わたる向ふは男山
行幸ありし先帝の かしこきあとぞ忍ばるゝ』
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 山崎は天下分け目の天王山の麓、秀吉と光秀の戦いの跡が偲ばれる。
そして戦国の仕掛け人、斎藤道三が離宮八幡宮の油売りになったのが始まりであった。
 56番『おくり迎ふる程もなく 茨木吹田うちすぎて
はや大阪につきにけり 梅田は我をむかへたり』
汽車は摂津の国をひた走る。
高山右近の高槻、中川清秀、片桐且元の茨木を過ぎて、曾根崎心中の大阪梅田に到着するのであった。
 57番『三府の一に位して 商業繁華の大阪市
豊太閤のきづきたる 城に師団はおかれたり』
大坂の陣で燃え上がった大坂城、淀君も秀頼も炎に包まれ、天空に昇った。
明治になって、大坂城には陸軍師団、工兵廠が置かれていた。
 60番『大阪いでゝ右左 菜種ならざる畑もなし
神崎川のながれのみ 淺黄にゆくぞ美しき』
大阪を出発した汽車は、神埼(尼崎)西宮を走る。
沿線の風景は、この歌のようであったのであろう。
 64番『七度うまれて君が代を まもるといひし楠公の
いしぶみ高き湊川 ながれて世々の人ぞ知る』
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 楠木正成公の終焉の地、湊川神社である。
足利尊氏の上陸作戦に激しく抵抗して、矢折れ刀尽きたのであった。
 65番『おもへば夢か時のまに 五十三次はしりきて
神戸のやどに身をおくも 人に翼の汽車の恩』
神戸駅に到着した。
東京から神戸まで、人に翼が付いたように、またたく間に到着したのが実感であったようである。
 今回は途中下車なしで、神戸に到着したのであった。