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 兵庫県の瀬戸内海岸沿いの真ん中辺りに明石市がある。
 明石市は東経135°の子午線が通過する日本標準時の街として良く知られる。
 また、急流の明石海峡を漁場とし、その賜物である明石鯛、明石蛸も有名である。
 今回、明石蛸の「たこめし」を味わって見ようと明石駅で再び途中下車した。
 タコを使う料理で有名なのは明石の玉子焼であるが、タコを使う料理でもう一つ忘れてならないのは「たこめし」である。
 たこめしは茹でタコではなく乾燥させた干しタコを使う。
 タコの味が凝集された味が炊き込みご飯に広がって美味いと云われている。
 先ずは駅ナカや駅に続くグルメ街を探したが見つけられなかった。
 やはり「魚の棚」か…との結論で、今回もそこに向かったのであった。
 明石には駅の南、国道を越えたところに「魚の棚(うおんたな)」という魚類販売を中心とした商店街がある。
 明石の観光名所ともなっており、魚や加工品を売る店以外に、それを食べさせる店も賑やかに並んでいる。
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 前回、この魚の棚で玉子焼(明石焼とも云う)を頂いた。
 現在は玉子焼と云う呼び名がフィットしているが、元々は球形に焼き上げるのでタマヤキと云う名から始まったとも云われている。
 玉子焼はタコを入れて焼く料理であり、大阪発のタコ焼と同様であるが、一説には大阪のタコ焼よりも古くから存在するとも云われている。
 店は直ぐに見つかった。
 「KH」という食事処である。
 入口頭上大看板には大きく玉子焼と書かれている。
 入口横の立て看板を見てみるとたこめしが書かれている。
 上手い具合にテーブルが一つ空いていた。
 案内され座って、迷わずたこめしを注文した。
 周りのテーブルを見てみる。
 皆さん玉子焼を前に置いて味わっている。
 明石に来たら、魚の棚に来たら、先ずは玉子焼なのであろう。
 玉子焼は前回味わったので、今回はたこめしで良しである。
 新しい客が来て、相席となった。
 その客も玉子焼を頼んでいる。
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 たこめしが出てきた。
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 たこめし本体は柔らかそうな色である。
 それに澄まし汁も付いている。
 蓋を取って見ると、具の魚は明石鯛。
 明石鯛も頂けるとは…、期待が膨らむ。
 早速たこめしを一口、見たままの柔らかい干しだこの味である。
 タコの身は5mmぐらいに小さく切り込まれたのが散りばめられているがそう多くは無い。
 なるほどこれがたこめしか…。
 昆布出汁の上に乗っかったタコの味が爽やかである。
 続いて澄まし汁、こちらの方が少し濃い目である。
 たこめしと上手くマッチングしている。
 合わせて順次、美味しく頂いたのであった。
 さて、明石と云えば駅から北に見える明石城が有名であるが、明石城ができる前はその南西方向にあった船上城(ふなげじょう)がこの町の政庁であった。
 船上城は最初は林ノ城と云われ、三木城主別所氏の支城として別所長治の叔父が築いたと云われる。
 三木合戦に兵糧攻めで織田方が勝利した後に蜂須賀、次に生駒が城主となったが、一旦は廃城になったと云われる。
 その後、秀吉の天下となり、高槻から高山右近が林ノ城主となり、大改修を加え船上城が完成した。
 しかし右近はキリシタン追放令により放逐され、後に池田輝政が入り、姫路城の支城として機能した。
 大坂の陣の後、輝政は国替えとなり、船上城には小笠原氏が入った。
 そして小笠原氏は新たに明石城を築き、船上城は廃城となったと云う経過を辿っている。
 船上城跡は現在は本丸跡の小山に小さな祠が残っているのみである。
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 この明石城の築城時、宮本武蔵による町割が行われ、東魚町と西魚町ができたと云われる。
 東魚町は「東うおんたな」とよばれ主に鮮魚を、西魚町は「西うおんたな」とよばれ主に塩干物を扱っていた。
 しかし、昭和初期に西魚町は廃れ、現在は東うおんたなのみが残ったというのが現在の魚の棚である。
 余談であるが、船上城の遺構として、現在の明石城の南にある堀を挟んだ前の通り向こうに織田家陣屋門が移築されている。
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 ここには明石藩の家老の屋敷が並んでいたと云われる。
 こちらの織田家は織田信長の叔父で犬山城築城主信康の家系であり、孫が結城秀康に仕えることに始まったと云われる。
 また、姓も「おだ」ではなく「おた」と濁らなかったそうである。

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