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 四国に所用があっての帰り道、瀬戸大橋線の茶屋町で途中下車、宇野線に乗り換えて、終着の宇野駅にやってきた。
 宇野駅は瀬戸大橋ができるまでは四国への行き帰りに必ず利用した駅である。
東京からも寝台特急が出ていたりしていたと記憶している。
ここから宇高連絡船に乗船し、高松に着いたら新たに四国内を走る列車に乗り替えたものである。
 これらはもう古い記憶でしかない。
最近はどうなっているんだろうか?
一度は様子を見に行ってみたいと思いながら、やっと来る事ができたのであった。昼間だったせいもあるが、乗客は殆どが高校生風…。
賑やか車中の各駅停車が宇野駅に着いた。

 昔の宇野駅の構内は、線路・ホームも沢山あって広かった筈である。
その面影は駅のホームに沿って広い駐車場があることだろうか?
 今は駅舎もホームも小さいものでしかない。
駅を降りて外に出ると、お決まりのバスのロータリーがある。
そしてその向こうは、瀬戸内海が広がっている。
 観光案内所があったので地図を貰いながら、聞いてみた。
一つは、宇高連絡船の桟橋は残ってる?
も一つは、有名な寺社はどこにある?
そして、食べ物の名物は何?
 的確な答えを頂いた。
さあ探索に出発だ…。
 駅を出て左側の公園らしきところに宇高連絡船の桟橋の遺構があった。
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 車一台分ぐらいの大きさである。
ここが桟橋だったのか…。
昔は賑わったんだなとの思いであった。
 この遺構桟橋から、海を眺めて見る。
近い所に大きな島が見える。もうそこは香川県。
直島である。
ここにはMマテリアルという大企業の工場がある。
こんなに近いんだったら橋を架ければいいのにと思うが、異県の壁で、そうもいかないんだろうか?
と、勝手に思ったりする。
 少し向こうに小型船舶の発着場所がある。
直島へはひとっ走りの様である。
船で行き来する方が早いのかも知れない。
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 駅から見て、右手向こうには新しい桟橋がいくつか並んでいる。
直島行きのフェリーの桟橋、小豆島行きの桟橋、そして高松行きの桟橋、そして、歩くこと10分ぐらいで、宇高国道フェリーの桟橋である。
大きなフェリーが常時入出港を繰り返していた。
 また後で宇野駅に戻ってくるので、港は置いといて次に行こう。
 バスに乗って、「玉」と云う所を目指した。
ここにある玉比咩(たまひめ)神社を教えられていたからである。
 この神社は平安時代から鎮座する神社で、竜宮の乙姫様つまり豊玉姫命を祀っている。
この辺りまでは海だったらしい。
境内には霊岩という高さ10mにも及ぶ玉子型の大岩が祀られている。
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 これも海人の守り神だそうである。
 この辺りは、この神社の名前から玉地区と云い、合併前の日比町の中心地だったそうである。
しかし神社だけでは、よほど大きな神社でないと中心地にはならないと思われるが…。
 答えは直ぐに見つかった。
この地区にはM病院と大きなM造船所がある。
近くにM金属鉱業の精錬所もある。
但し、このMは先程の直島にあるMマテリアルのMとは違う。
もうひとつの大きな企業グループのMである。
 この玉地区を歩いていると、COOPはM生協となっている。
企業の名がそこまで浸透しているとは…。
この企業が町の人達の生活を支えていたのであろうか…?
 現在、宇野が属する自治体は玉野市と云う。
1940年に児島郡の宇野町と日比町が合併してできた市である。
普通は両方から一字づつ取るのが美しい形であるが、そうはならなかった。
 日比町からの一字は、中心であった玉地区の「玉」と云う文字を取った。
そして宇野からは「野」を取って「玉野市」。
綺麗な名前ができたのであった。
 神社にお参りして御朱印を頂いた。
玉地区を後にして、宇野の港に戻ろう…。
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 さて最後は食べ物である。
2つのB級グルメがあると教えてもらっていた。
港まで戻って、和風レストランの「U亭」に入った。
 メニューには、ご当地グルメの「たまの自衛艦カレー」「たまの温玉めし」がある。
 どちらかと迷った挙句、温玉めしを選んだ。
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 めしは焼き飯であった。焼き飯に温泉玉子が乗っていた。
焼き飯は蒲焼のアナゴを刻んだものを具にして、蒲焼タレと醤油で味付けした、ちょっと軟らかめのものであった。
しかし胡椒かな?ピリッと刺激がある。
 玉子を壊して一緒に食べるとまろやかに、甘みさえ出てくる。
う~ん、なるほどと云う味で美味しく頂いた。
 港をもう一度歩いてみた。
連絡船が無くなったこと、造船業も下火になったことで、この町はかなり苦労が多かったかな?と思われる。
 これからも、あの手この手で町の活性化を計って行くんだろうな?と感じた。
B級グルメもそのうちの一つであろうか…?