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中央線飯田橋駅を降りると、交差点の向こうに神楽坂の通りと街が広がっている。
丁度、昼時になっていた。
神楽坂で食事処を探してみよう。

 神楽坂の本通りにはいろんな店がある。
コンビニ、ファーストフード、寿司屋、ラーメン屋、それに洋や和の立派な食事処やら、何でもありそうである。
学生さんを始め、勤め人、観光客など色んな人の需要を満たすべく、このようになったのであろう。
このような場合は路地に思いも依らない店があったりするものである。
2、3の路地に入ってみた。
 福井藩家老の本多修理に因む本多横丁を辿り、更に直角に入ると2階に木製ドア構えの蕎麦屋さんがあったが、まだ開店前であった。
さらに別の路地を探したが、なかなかこれはという処が見つからない。
それでも最後に仲通りの蕎麦屋さんに落ち着いた。
福井の越前蕎麦の店「KZR蕎麦」である。
 ここも木製の重たいドアの入口であった。
こういう店は店内がどのようになっているのかわからないので不安がある。
しかし、ガヤガヤした雰囲気ではないだろうとは思われる。
 思った通り店内はゆったりとしていた。
ランチメニューの中から、かけ蕎麦とソースかつ丼のセットを頼んで暫く待った。
どちらも越前福井名物である。
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 出てきた越前蕎麦は美味しかった。
そば麺もさることながら、ここのは出汁が大変に良くできていた。
殆ど透明に近いのにしっかりと味を出している。
後で聞いてみると、鰹節、昆布、うるめの煮干し、それに烏賊で出汁を取り、淡口醤油も少し使っているとのことである。
「この味なら、良く流行っているでしょう?」
と聞いて見た。
「まあまあですかね…」
と云いながら、
「今度、毘沙門天さんの前にも店を出しました。そちらにもどうぞ…」
と、少し自慢気に答えてくれた。
 ソースかつ丼はどうかと云えば、この名前の通りである。
とんかつをトッピングしてウスターソースを掛けただけの極めてシンプルなものである。
以前に若狭の敦賀で食べたことがあるが、取り立てて云うほどのことではない。
おにぎり程度に考えれば、何の問題もないのである。
蕎麦に満足して、店を出たのであった。
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 この店の前の外壁に九頭竜川と九頭竜の神の謂れが書かれてあった。
 それによると、越前の現在の九頭竜川の流域の村々に干ばつが起こり、上流下流の村人が水の奪い合いで大喧嘩を始めたことがあった。
それを良しとしない村の若者が川の大神に祈りを捧げたそうである。

川の大神は村の有様を知り、長年岩に閉じ込めていた荒くれ九頭竜を赦免した。
大神から許された九頭竜は力いっぱい岩を破り雨を降らせた。
村人たちは九頭竜に感謝し、一生懸命力を合わせて働いた。
その甲斐あって、なんとその年は村始まって以来の豊作となったそうである。

 九頭竜はその後も川に住み、村人たちを守り続け、いつの間にやら村人たちはその川を九頭竜川と呼び、九頭竜は五穀豊穣の神として大切に祀られたと云われる。
 食事も終り、神楽坂の更なる探索である。
坂を登って行く。
それこそいろんな店がある。
果てはパーラーまで…。
神楽坂は商店の見本市、デパートと云えよう。
 坂を上りつめるとそこには毘沙門天がある。
日蓮宗善国寺という。
お参りして御朱印を頂き、その由緒を調べてみる。
開基は徳川家康、池上本門寺の僧侶が関係する寺院である。
当時は水戸黄門の信仰が厚かったと云われている。
江戸三大毘沙門天の一つだそうである。
 善国寺を過ぎて少し行くとそこは「神楽坂上」の交差点であるが、その先も商店街はまだまだ続く。
進んで行くと地下鉄東西線の駅への下り口がある。
その手前を右折すれば「赤城神社」である。
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 この神社、徳川家によって牛込総鎮守とされ、「神田明神」「日枝神社」と共に江戸の三大神社とされたものである。
鎌倉時代に、現在の群馬の赤城山の麓から牛込に移り住んだ大胡(おおご)彦太郎重治により本国の鎮守であった赤城神社の分霊を牛込早稲田に祀ったのが最初である。
その後、江戸城を築城した太田道灌により牛込台に移され、大胡宮内少輔により現在地の地に移されたものである。
 社殿は太平洋戦争で全焼したが、順次再建され現在に至っている。
中でも菅原道真を祀る蛍雪天神は、戦災で焼失した北野神社を旺文社の寄付により再興したもので、同社の受験雑誌『螢雪時代』に由来した蛍雪天神と名付けられ、受験生の合格を祈願すると云われる。
 本殿にお参りし御朱印を頂き、これにて飯田橋、神楽坂のミニ旅を終了した。
神楽坂、表通りはともかく路地、裏通りにはいろいろな店があるが、それはまたの機会に…。