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 皿そばという少し聞き慣れない食べ物がある。
このそばは兵庫県の但馬地方で日本海に近い旧出石藩、現在の豊岡市出石町の郷土料理で、皿そばの店は街中に50軒もあると云う。
 もりそばの一種であるが、小皿に2~3口サイズで茹でたそばを盛り付け、その小皿が基本は5枚、後は腹具合に応じて追加できるようになっているそばである。
醤油、昆布、鰹節ベースのそば出汁に、薬味として生卵、とろろ芋、キザミのり、葱などを混ぜ食べるのが一般的である。
 そば麺は殻付き挽きぐるみの全粒粉で、かなり黒に近い関西風で、ツウには堪らない食感のものである。
 さてこの皿そば、出石そばとも云うが、どうしてこの地の郷土料理となったのであろうか?
 戦国時代に仙石秀久という武将がいた。
当初は豊臣家に仕え、瀬戸内海を中心に城を構え、水軍を操ったりして戦いを指揮した。
そして武功を重ねていたが、九州島津攻めの時に大失態を引き起こし、冷遇されるに至っていた。
それが、小田原北条攻めの時に単身で参戦し、武功を挙げた。
仙石原と云われる名付けともなった。秀吉が亡くなると徳川家康に接近し、関ヶ原で秀忠軍に属し、信州にて真田との折衝に功を挙げた。
その結果、江戸時代になって信州上田藩の藩主となったのである。

 江戸幕府には国替えがある。
仙石氏の子孫大名は元禄の頃、但馬の出石藩に国替えとなった。
その時に信州から腕の達つそば職人を連れてきて、出石でそばの生産を行い、そば文化を形成していって今日に繋がっているのである。
 講釈はこれぐらいにして、早速出石そばを食べに行って見よう。
出石そばは出石まで行かなくても阪神圏で食べられる出石の店が出店されている。
調べた結果、同じ兵庫県伊丹市の阪急伊丹駅のビル内にその店「HMK」があることがわかった。

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早速に出かけて見た。
開店からそんなに時間が経ってない時間帯であるが、店内は既に5割ぐらいの客が入っている。

 人気の無い店だったらどうしよう? と思っていたが杞憂に終わった。
注文は標準の皿そば5皿とした。
 出てくるまで少し時間があった。
最初に出汁と薬味が盆に載せられ出てきた。
そして更に待たされ、5枚の皿そばが出てきた。
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 早速頂いてみよう。
薬味を入れて出汁を調合し、一皿づつ頂いた。
やはりそば麺はしっかりしている。
噛み応えもある。
なるほどこれが皿そばかと、瞬く間に完食したのであった。
恐らく5皿で一斤はあるのであろう。
もう少し食べたい気がしたが、打ち止めとしたのであった。
 伊丹に行ったのはそれなりの理由がある。
戦国武将の荒木村重の有岡城の見学も兼ねている。
 少し歩かないと行けないが有岡城跡に行って見た。
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 有岡城の城跡は現在はJR福知山線の伊丹駅となっていて、駅のそばに少しの石垣と遺構らしき井戸などが保存されている。

城跡に登った時、丁度歌碑であろうか拓本を取っている女性方がいた。
「どうするんですか?」
と聞いて見た。
何やら、秋にある拓本の展示会に出品するとの返事が返ってきた。
趣味って色々あるんだなあと思った次第であった。

 有岡城は総構えの城であったと云われる。
城域に町屋などが含まれ、その全体が土塁や堀などで囲まれているものである。
今回はその北端を見に行った。
猪名野神社がその北端と云われている。
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 行って見ると確かに神社境内の端は城郭化されている。
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 土塁跡などを見た次第であった。
 荒木村重については色々な評価がある。
信長に謀反して攻められたと云うのが一般的である。
 しかし村重は摂津の国主である。
摂津国は難波(なにわ)の石山本願寺が中央に座す国であった。
信長は長島本願寺との戦いで弟の信興を殺されたことにより、執拗に本願寺を敵とした。
 村重は摂津国の自立を守るため信長を諌めたが、尾張の人達には通じず、残念ながら攻められたのが真実である。
村重一統は毛利や雑賀衆の援護を得て応戦したが残念ながら尾張勢に敗れてしまったのであった。
有岡城跡を見るたびにその無念さがそして尾張衆の他国侵略の有り様が語り掛けられているようでもある。それらは歴史の一経過としての流れである。
今は尾張がどうのとか明治維新の薩摩がどうのとか言ってる場合ではない。

 それぞれの街が美味い物を作り育て、その味を競ったりする世の中となっているのである。

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