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 東京駅がリニューアルされた直後、東京に行く機会があった。
所用を終えると夜も遅くなってしまったので一泊。
あくる日の朝、改装なった重要文化財「東京駅」の煉瓦の駅舎を見に行くことにした。
少し前、テレビの番組か何かで『東京駅舎のリニューアル完成という』報道を見て、一度見てみないといけないなと思っていたところに、チャンスが来たからである。
 東京駅は乗り換えのために良く通るが、駅の外に出るなんてことはめったにない。
また、外に出ることがあっても、丸の内側の駅前広場に出ることは、丸の内のオフィス街に用があるときだけに限られるので、殆どない。
 改装前の駅舎はどんなんだったろうか?
それを十分説明できるほどには見てはいないが…。
左右に黒っぽい寄棟風の直線的な屋根を持つ赤レンガの一部3階建ての駅舎だったような感じがする。
写真を見せられれば、ああそうだったとあやふやな記憶を呼び起こす程度である。
 日本に最初に鉄道が通ったのは新橋~横浜間で、明治5年のことである。
その後明治時代を通して全国に鉄道網が広がって行ったが、不思議なことに現在の東京駅の場所に鉄道が通じたのは、大正3年のことであった。
 それは、東海道線は新橋が、東北線は上野が起点となって運用されていたからであるが、やがて、その2つを結ぶ路線の必要性が帝国議会で決定され、日清・日露の戦争で建設が遅れたものの、やっと大正3年に線路が敷設され、中央駅として東京駅も開設されたのであった。
 その東京駅を設計したのは、当時日本の洋風建築の権威とされていた辰野金吾という建築家である。
辰野金吾氏は、工部大学校(現東大)にて、当時まだ珍しかった西洋風の建築をイギリスから招聘したジョサイア・コンドル教授に学び、のちイギリス留学を経て、コンドル教授を継ぎ工部大学校教授になった人物である。
 蛇足であるが、コンドル氏は教授を辞めてから丸の内のオフイスビルの建築に尽力した人としても知られている。
 辰野氏は、建築家になったからには設計したいものは3つあると常々言っていた。
それは「日本銀行」「東京駅」「国会議事堂」でいずれも国家の象徴的な建物である。
日本銀行本店を設計・建設したのち、突如教授を辞めて独立して、建築事務所なるものを開いたが、当時は未知のビジネスであり、客が寄り付かず、生計を立てるに苦労したそうである。日本の建築と云えば、普通は大工さんが設計施工を全て行うのが、辰野氏が設計と云う仕事に突破口を開いたことで、後進の若手が次々と続き、建築家という職業が徐々に認められていったのであった。
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 そんな辰野氏の事務所にある日、東京駅の設計の仕事が舞い込んだ。
夢の2つ目である。
誰に設計してもらうかと云うことで、紆余曲折があったようであるが、首都を代表する建築物であり、日銀の設計実績もあり、そして当時の建築界の第一人者に託すと云うことで、決められたそうである。
 大正3年に完成した駅舎は、鉄骨に赤レンガに白い帯を巻いた3階建て、全長335m、そして北口、南口の屋根にドームを載せた見事なものであった。
その姿が今回の復元で見られるようになったのであることは嬉しいことである。
 しかし、当時はまだ丸の内地区には建物はなく、この駅の利用者も数少なく、国家の威容を誇るためだけの駅だったようでもある。
 その後、東海道線や東北線、中央線の起点が東京となり、山手線も出来、賑わうようになってきた。
現在の姿に近いものとなったのである。
 関東大震災ではびくともしなかった東京駅であるが、第二次世界大戦の東京大空襲では上部の一層分が破壊されてしまった。
その一層分を失ったままの姿に屋根が取り付けられて、ごく最近まで運用されてきたが、元の姿に戻そうとの機運が高まり、5年の歳月をかけての大復元となったのである。
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 東京駅の駅前広場では、オープニングのセレモニーのための準備が進められていた。
白いテントが張られていて、景観はあまりよくはない。
しかし、関係者の喜びはいかばかりのものであろうかと思われる。
 今度東京へ行ったときには、内部が見られるはずである。
次回を楽しみにして東京駅を後にした。
 尚、余談であるが…、辰野氏のこと。
3つ目の国会議事堂建築の夢に着手をしていたが、夢半ば、当時流行ったスペイン風邪に罹り、帰らぬ人となってしまったのは、残念なことである。