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 今回も京都の蕎麦シリーズである。
関西ではあまり馴染みのない用語「もり」そばの店を訪ねる。
 京都御苑の西南の隅に近い椹木口(さわらぎぐち)の烏丸通を挟んで西側の石畳の路地を入った所に「敦盛そば」という看板の蕎麦屋がある。
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 平家の一族敦盛に関係する店なのか? あるいは信長が好んだ幸若舞「敦盛」に関係するのか? 以前から気になっていたのであるが、店構えからして少々敷居が高そうなので、お邪魔する機会を逸していた。
 今回、近くに用があり昼時に店の案内看板の前を通ったので、一度はと思って入ってみた。
店の中は普通の民家を小奇麗に改装したような感じである。
入口で靴を脱ぎ上がる。
右手は台所を改装した調理場である。
奥は座敷になっていて、客は既に一杯のようである。
「お二階へどうぞ」
と案内され、二人が向かい合う席案内され、一人で占領した。
「御注文は? うちは『あつもり』と皿蕎麦の『追っかけ皿そば』の2種類だけですけど…」
と聞かれた。
迷わず「あつもり」と答えた。
「大きさは?」
聞くと、一斤、一斤半、二斤とあるそうである。
中を取って一斤半を注文した。
 暫く待つと、卵と山葵の上に九条葱が積み上げられた椀と梅干、それに徳利に入った熱々の出汁、それに蕎麦湯が届けられた。
「出汁を椀に入れて、良く混ぜてくださいね。それに蕎麦を入れてお召し上がり下さい」
との説明も付け加えられた。
 中々肝心の蕎麦は出てこない。
仕方ないので、椀の準備を始めた。
 やっと出てきた。
蓋付きの蒸籠が届けられたのであった。
「熱いですから、気を付けてくださいね」
とのご注意付きである。
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 蓋を開けてみる。
湯気がかなり立ち上っている。
蕎麦は結構黒い。
殻も合わせて挽く全粒粉で打たれた10割蕎麦である。
 良く見ると断面は素麺の様に円形である。
どのように打つのだろうと思ったが、それはどうでも良いことである。
美味ければそれで良しである。
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 早速頂いてみよう。
出汁は少し甘めである。
嫌いな味ではない。
蕎麦は柔らかい。
蒸しているから当然であろう。
腰は感じられないが、それはそれで美味しいものであった。
 ただし一斤半の量は多かった。
超満腹となったのであった。
 この蕎麦、全粒粉につなぎに長芋と卵を入れ、延しまで手作業で行い、機械で最終形に整えるべく切っているのだそうである。
また出汁は京都風、利尻昆布と花鰹出汁に特別の醤油を合わせているとのことであった。
 屋号の「・・・・敦盛」ついては、忙しいく働いている店員さんに聞けなかったが、店の雰囲気からして平家や信長に関係ないようである。
恐らくは、熱い盛り蕎麦と平敦盛を掛けたもので、関西人一流の洒落であろうと思われる。
 しかしこの蕎麦屋さん、信長が築いた旧二条城の南端あたりに、また信長の居城であった二条殿の北方に当る場所にある。
その信長はことのほか幸若舞「敦盛」を好んだ。
節目節目には、家臣の前で吟じ舞っていたと云われる。
 その敦盛の一節に、
『人間(じんかん)五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
・・・・・』
とある。
 人間界の50年は下天世界の1日にしか当たらず、儚いものである…。
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 ここで少し敦盛に…。
 平敦盛とは平家方の若き武将である。
神戸須磨の一ノ谷の源平合戦で敗れた平家軍は船で沖合へ逃げるが、敦盛は愛用の青葉の笛を持ち出すのを忘れたため陣屋に取りに戻り、海岸べりへと戻った。
しかしその間に船は出てしまっていた。
気づいた平家軍は船を戻そうとするが波・風のため思うように戻れない。
 うろたえる敦盛を見付けた源氏方の武将熊谷直実(なおざね)が一騎打ちを仕掛け、組み伏せたのであった。
 顔を見てみるとまだあどけなさが残る若き武将である。
先日討ち取られた我が子直家の面影が重なり、頸を刎ねられずにいた。
 そこに源氏の諸将が集まって来て、討ち取らない直実を二心あり?と疑った。
止むを得ず頸を刎ねたが、後になって直実はその苦しみから抜け出せないで出家を決意したのであった。
 直実が出家し、世を儚んだ詩が「敦盛」である。