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 京都の鴨川べりの地下を走る京阪電車の駅に「神宮丸太町」と云う駅がある。
神宮とは平安神宮のこと、丸太町は丸太町通りのこと、三条・四条から少し北である。
この駅で下車して北口階段を昇り、地上へ出て東へと向かう。
 大学病院の前を通り過ぎ、東大路を横切ったところに、2軒の八ツ橋の総本店が狭い通りを挟んで、斜めに向かい合っている。
 「N八ツ橋」、「S八ツ橋」で、江戸時代元禄年間の創業である。
英字でNとSと書けば磁石の両極のようであり引き合う筈であるが、実際はどうなんだろうか?
 この2店の成り立ちに興味が涌く。
 京土産として多くの人に好まれている八ツ橋、仕事のついでにその発祥地を訪ねて見た。
 八ツ橋、最近はバリエーションも多く、多彩なお菓子となっている。
 まず原型は筝曲の箏の形をした堅焼きのせんべい状のもの、円筒を割ったような形である。
八ツ橋と云えば古来からこれである。
 次に、焼く前のもの。生八ツ橋と呼ばれる。
 もうひとつは、四角い生八ツ橋を対角線で折って、その中に餡子を挟んだもの。
メーカーによってネーミングが違う。
「おたべ」「聖」「夕子」・・・という名前が付けられている。
最近は餡子に当初のつぶあんだけでなく、色んなものが挟まれている。
皮生地も、抹茶やらイチゴやら胡麻まで混ぜられているものもあり、とてもカラフルである。
 実はこのあんこ入り生八ツ橋、原型があった。
祇園祭の前夜、祇園の料亭「一力」でお茶会が催されるが、その主菓子であった。
あんこに生八ツ橋を巻いたもので「お神酒餅」と云う名だそうである。
これをお土産用にしたものであり、歴史は古い。
 八ツ橋の主原料は、米粉、砂糖、ニッキ、ケシの実。
焼くとニッキのいい香りがする。まさに京都観光と云う香りであり、かつては土産物街の匂いであった。
今は工場での機械生産であり、もうその香りはない。
 原型の八ツ橋は少し堅い。
パリパリ・ボリボリ云わせながら食べる。
そして、噛むほどに味が出る。
 八ツ橋の名前の起こりはどうなんだろうか?
少し歴史を遡る。
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 江戸時代の初期のころ、八橋検校(けんぎょう)という筝曲の先生がいた。
目が不自由であったが、箏(こと)の演奏やら作曲に優れた才能を発揮して、多くのお弟子さんがいたと云われる。
 この八橋検校が亡くなり、聖護院の森の奥の小高い所にある浄土宗寺院「金戒(こんかい)光明寺」にその墓が設けれられた。
 この金戒光明寺には、徳川秀忠公の菩提を弔うために建てられた三重塔があるが、その塔より一層高い所に検校の墓は建てられた。
 余談であるが、金戒光明寺は、江戸末期、松平容保を指揮官とし、会津藩士で構成された幕府方の京都守護役が駐屯したところでもある。
 この金戒光明寺へは、先程の八ツ橋の店の辺りから当時は聖護院の森の中の参道を通ってお参りする。
八橋検校の墓へ、お弟子さんやら関係者のお参りが絶えなかったという。
 そこで、検校を忍ぶお菓子を考え出し販売を始めたのが、N八ツ橋店と云われる。
検校の姓を頂き、そのままでは何なので、間に「ツ」を入れて…。
場所は聖護院であることから「聖護院八ツ橋」とした。
形はお箏をイメージして、丸みを帯びさせたのであった。
 月日が経つにつれ、お参りする人も少なくなり、経営も立ち行かなくなるのは、世の常である。
 N八ツ橋店の用人であったS八ツ橋店の創業者が私財をなげうって、事業を再建したという。
自らが経営者となり、ブランド「聖護院八ツ橋」も引き継いで、商売を続けたのであった。
「S八ツ橋店」と屋号をつけた。
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 更に月日が経って、元のN八ツ橋の経営者「N氏」も財力が付いたので、もとの店「N八ツ橋店」を再建した。
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 以来、店は2軒となり、今日を迎えるに至ったのである。
 現在ではこの2店、それぞれ支店や販売所も数多く持っており、京都ではどこでもお目にかかることができるようになって繁盛している。
 八ツ橋の他の有名どころは、祇園の井筒八ツ橋、おたべ、などである。
 じゃあなぜ、聖護院と云うのか?
 聖護院とはこれら八ツ橋店の東側にある修験宗本山寺院のことである。
有名な後白河天皇の皇子が法主になって以来、皇室からの入寺が相次ぎ、明治維新まで、聖護院宮と云われた。
天明や安政の御所炎上の時には、光格天皇、孝明天皇の仮皇居となったところでもある。
 この寺院の名からこの辺り一帯を聖護院と呼ばれているのである。
このあたりで栽培された野菜に、聖護院だいこん、聖護院かぶらなど…、があったが、現在は郊外にて栽培されている。