信長の戦いはまだ続く。

1575年、信玄亡き後、家督を継いだ武田勝頼は、武田から離反して徳川方に戻った奥平貞昌を討つため、奥平の居城長篠城を取り囲んでいた。
勝頼の若さの故か、寝返りにカッと来て、戦略も無いまま、遺恨だけで、三河の入口まで出てきていたのであった。

勝頼は、信玄から家督を継いだ形にはなっていたが、信玄の家老達からは、支持されていたとは云えない。
ここは徳川に寝返った城を奪い返すことで、家老達を納得させたかったという焦りもあったのであろう。

奥平は奮戦・善戦していたが、そろそろ兵糧も尽きる。そこで家臣・鳥居強右衛門(すねえもん)を岡崎の家康の所に援軍要請しに行かせた。

家康から既に援軍要請を受けていた信長は、早くも家康の居城岡崎城へ3万の軍を率いて、到着していて、長篠へ向け出発の段階になっていた。
そこへ、強右衛門がやって来たのであった。

戦いの前のただならぬ様子を見た強右衛門、安心して帰城しようとした時、偶然に信長と顔を合わせた。
「お前は、何者じゃ? 奥平の手の者か?」
「左様でござる。織田のお館様とお見受け申すが…」
「それは、言えぬ。もしや、お主が武田の手の者に落ちたら、援軍は来ぬ、と言っておけ! しかし、貴様らの弔い合戦には行ってやる! そう心得よ!!」
「あい分かりまして候…、有難き幸せ…」
と、強右衛門は帰って行った。

援軍の朗報を得て長篠へ帰る途中に、やはり武田軍に捕らえられた強右衛門、武田軍から、「援軍は来ない」と報告すれば助けてやると云われ、了承したが、城の前に来た時、「援軍は数日で来る」
と大声で言った。
付いてきた武田軍に、その場で切られたと云う。
その一言で、守城方は士気が高められたのであった。

この強右衛門の功績が、現在も残っている。
愛知県の豊川市から、豊川沿い飯田市方向に遡って行くJR飯田線、この飯田線が大きくS字にカーブするところがある。
そのカーブにある「鳥居」という駅が、因んだ命名である。
この鳥居駅の次の駅が「長篠城」駅、ここに長篠城があった。
そして、この鳥居駅の南西のあたり設楽(しだ)ヶ原が主戦場であった。

長篠城・設楽ヶ原の地は、長野諏訪からは豊川の谷を下って三河に出る所にある。
長篠のあたりの豊川とその支流の川の形は、例えると英文字のyを手書きして、尻尾の部分を左へ長く伸ばした形に似ている。

yの上に開いた部分の真ん中に、長篠城がある。yの右棒は豊川、その右は山で、武田軍の砦が五基、長篠城に対峙している。
yの左の棒は寒狭川、尻尾のはねた部分が連子川、連子川の南に、川に沿って、織田・徳川軍二万程度が集結している。

織田・徳川軍は、武田の騎馬隊の力を恐れ、川の両岸を傾斜地に掘り、更に軍の前に3重の馬防柵を設けていた。
この工事・工作は、近隣の百姓と信長軍工作隊との共同作業で、梅雨の雨の中、3日間を要した。
雨の中の辛い作業であったが、幸いなことに雨が隠してくれて、敵は感づいてはいない。

武田軍は、砦と城周りに五千、寒狭川と連子川の間に一万弱の配置となっている。

これが、戦闘開始時点の両軍の配置であった。

雨将軍と云われる信長、戦いのときは決まって雨が降った。
しかし、この戦いには雨は困る。なぜなら、鉄砲を思いっきり使いたいからであった。
火縄銃である。雨にはすこぶる操作性が悪い。使えないといっていい。
この戦いのために、鉄砲を1500丁ばかり集めた。もちろん射撃手も揃えた。

梅雨の晴れ間を狙って、攻撃を開始する予定としていた。そのために、雲見の衆を付近の山に登らせ、雲行きを観察・報告させていた。
さらに、川も防御の堀になってくれる。土砂降りでの増水も期待していた。

連日雨が降った。
「やはり、儂は雨将軍かの?」
つぶやいていたが、20日の夕方、雨が上がった。気象方の報告があった。
「西の空、雲が切れ候、夕焼けから、明日は天気上々でござろう」

早速、軍議となった。ここは家康の戦場、信長は援軍。あくまでも家康を立てる。
家康の家老、酒井忠次が作戦を述べた。
「我が酒井隊は、夜間に豊川を渡り、敵の砦の背後に廻るのが良かろうと…」
「敵を設楽ヶ原、我らの前面に追い出すのじゃな?」
「御意!」

しかし、やはり気の短い信長、ついつい口出しをした。
「その作戦は、とらぬわ!
我が軍は武田に比べれは劣る故、戦力分散はあいならぬ!!」
明日の朝、夜明けとともに決行と決まった。

同じ頃、勝頼も軍議を開いていた。
信長自らが出てきたと聞き、家老達は撤退を進言した。
「信長は以前の信長ではない。戦わないのが、最良の策でござる。若、御撤退を!!」
「怖気づいたか? 信長を射とめるまたとない時ぞ…。早速、布陣を決める!!」
と戦うことになった。
武田四天王と云われる、山県、馬場、内藤らを始め重鎮たちは、敗戦を覚悟した。
軍議の後、一同は集まり、水盃で決別したという。

織田徳川軍の軍議が終わって、それぞれが明日の準備にかかっていたころ、信長は酒井忠次を密かに呼んだ。
「さっきは、悪かったなァ、許せ! その作戦でいってくれ! 軍議ではなァ、敵に内通しているやつがいないとも限らん。慎重に事を運んだまでだ…。詫びといってはなんだが、鉄砲200丁を進ぜよう。貴殿のと合わせて300丁、武運をな!」
しょげていた酒井、どれほど、元気づけられたことか…。
嬉々として、部隊に帰って行った。
信長、この戦は勝ったと身震いした。

余談であるが、この信長の慎重の上に慎重を重ねるやり方を、家康は大いに学び、大きな仕事の礎にしていくのであった。

翌朝、酒井隊と織田軍金森隊3000が豊川を越え、山を南から登り、武田の鳶ヶ巣山砦を見下ろす場所まで来た。
砦は五基からなる。
砦の先に、我が守るべき長篠城も見える。

300丁の鉄砲が、砦に向けて構えられた。
「ドドッド・・・!!」と、開戦の花火が炸裂した。
山上からの攻撃にあっては堪らない。武田軍は死者多数を出し、ほうほうの体で、本軍に合流すべく逃げ出した。

ここは深追いはする必要はない。
長篠城と、新たに織田徳川軍のものになった砦で、敵の退路を絶つのが目的であったのである。

武田軍は、騎馬を先頭に鉄砲の届かない至近距離まで、詰め寄ってチャンスを窺っていた。
敵正面は、川は掘り下げられ、おまけに水量豊富な連子川と三重の馬防柵が設けられているので、攻め込むには不向きである。
鶴翼の陣で戦うことになった。
両側の柵の無いところから、廻り込んで攻める方法である。

左翼には山県隊、内藤隊、右翼には馬場隊、真田隊、土屋隊といずれも名のある武将達を配した。
中央には、親戚筋の武田信廉や穴山信君など、あまり武勇に優れないものを配した。
それだけ、左右からの突破に期待を賭けていた。

武田の攻撃は左右から、隊毎に順番に突入した。左右は狭いので、2,3列の縦隊で突入してくる。
信長軍、待ってましたとばかりに、鉄砲を浴びせる。
鶴翼の陣を予想して、両側にそれぞれ400丁の鉄砲を集中配備していたので、武田軍は堪らない。
運よく鉄砲から逃れて、入り込めても、槍・刀が待っている。
武田の突入は、悲惨なものであった。

しかし、さすがに武田軍である。体制を立て直し、何度も何度も突入して来るが、突破口は開かない。
攻撃は、開戦から昼ぐらいまで、続いたが、そのころには、軍は壊滅状態であったと云う。

武田軍が攻撃を止めた途端、信長軍の追撃が始まった。
残党狩りに等しい。
武田の名ある武将は、殆ど殺られたと云う。
助かったのは、正面攻撃の親戚の重臣達、鉄砲の射程距離の外で、信長・家康連合軍と対峙していただけである。
そして押され始めると、真っ先に逃げたと云う。

勝頼も、取り巻き数十名で高遠の城まで、逃げたと云う。
ボロボロになった武田軍、信玄時代の栄光は何処へやら、再起不能となった。
1575年5月21日のことであった。

その8月、信長は越前に向かう。
一向一揆撲滅のためであった。
このころ、越前の一揆衆は、内部分裂を起こしていた。
一揆衆はまとまった戦いができないまま、信長軍に殲滅された。
越前の国は、柴田勝家が統治することで、信長は岐阜に凱旋した。

この年の内に、信長は織田家家督を嫡男・信忠に譲り、隠居することにした。
翌年、正月から安土の地に、居城の建設を始めたのであった。

なぜ、安土なのか?
美濃・尾張、越前そして京都、まだまだ安心できない。
いち早く駆けつけられる中心地、それが安土であった。
過去の因習にとらわれない、あくまでも合理主義である。

この安土城、3年の歳月をかけて完成したのであるが、その姿をつぶさに見たイエズス会の宣教師フロイスは、
『彼は都から十四里の近江の国の安土山という山に、その時代まで日本で建て
られたもののなかでもっとも壮麗だといわれる七層の城と宮殿を建築した。
真中には、彼らが天守と呼ぶ塔があり、我ら欧州の塔よりも遥かに気品がある。

この塔は七層から成り、
内部にあっては、四方の壁に描かれた金色とりどりの肖像が、
そのすべてを埋めつくしている。
外部では、これら七層の層ごとに種々の色分けがなされている。
あるものは黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、
それがこの上ない美観を呈している。
あるものは赤く、あるいは青く塗られており、
最上層はすべて金色となっている。』
と書いている。

信長の戦いは、これで終わりではない。
東の尾張・美濃・伊勢・・、北の越前・北近江・・、は治まったが、京の南部、摂津石山本願寺を中心として、畿内の武将たちがまだまだ勢い盛んであった。
更に戦いの日々は続く…
〔完〕