どうして家康と秀吉が、最初で最後の戦いをすることになったのか?

信長の亡きあと、その後目をめぐって、筆頭家老柴田勝家に難題を吹っかけた秀吉、強引に信長の孫・三法師を後目に据えた上、自らも後見役となり、その上、勝家までも滅ぼし、三男・信孝を自害に追い込んだ。

また、信長の二男・信雄を安土城から退去させ、長島城に押し込めたのであった。
秀吉は明らかに、信雄との対立の険悪化を狙っていたようであった。
そんなことから、信雄は家康を頼るようになっていた。

一つの出来事は、秀吉の調略である。
信雄家臣の3人の家老が謀反を企て、秀吉に内通していると云う噂を流したことである。
信雄はこの3人を処刑し、そして家康とはっきりと同盟を結んだのであった。

こうなっては、戦の気運、充満である。
家康も今度は本気で戦う準備を進めた。

当初家康は、戦場は信雄の本拠、北伊勢・長島あたりになるとの予測で手を打ち、軍の準備は行っていたが、状況は変わったので慌てた。

なぜ尾張の小牧・長久手が舞台になったのか?

事の起こりは、織田信雄の領有する犬山城を、秀吉に寝返った池田恒興と森長可が占領したことによる。

状況を聞いた家康は、北伊勢から北尾張へ向けて、自軍を急行させた。
そして、かつて岐阜攻めの時、信長が築城した小牧山城に入ったのであった。

小牧山城目指して、池田・森隊が攻めてきたが、徳川武将・酒井忠次らが「羽黒」で退けたのが初戦であった。

事は重要と見た秀吉も大坂から出てきた。小牧山城の北4キロの所の「楽田」というところに本陣を築き、家康と対峙することになったのであった。

もちろん信雄も長島を離れ、家康のいる小牧城に入ったのであった。

そして、両軍いくつかの砦を築き、戦の体制は整ったのであった。
時は、天正12年3月、信長亡きあとの、2年目の春のことであった。

いきなり、戦況に触れたが、少し場所について触れる。

愛知と岐阜の境目を、木曽川が流れている。
木曽川の河畔、愛知側に、国宝犬山城がある。
そこから名鉄電車の小牧線で小牧まで南下することができる。
犬山、羽黒、楽田、…そして小牧と、5,6駅で到達する。
このような南北の位置関係である。

両軍、対峙してから何も動かない。
十何日かが過ぎた。

ある日、秀吉陣の軍議が開かれた。
この頃になると、秀吉には威圧感が伴っている。誰も発言はしない。
「こ度の犬山城のこと、恒興殿、長可殿の働き、礼を言うぞ…。しかしな、羽黒で酒井ごときに押し返されたのは、まだ未熟であるがの…」

こう言われては仕方がない。
池田恒興が言う。
「いやはや、面目ござらん。徳川がそこまで来てるとは…。抜かり申した」
「ここは尾張であることを、忘れてはいかんぞ…。徳川殿の本拠地じゃからのう…。それで、晩回の妙案は持っておろうな?」

どんどんと攻めて来る。ここで無しと言ってしまえば終わりである。
上手い具合に恒興にはこの瞬間、閃いた。
「三河衆一同が、目の前にいると云うことは、家康の本城・岡崎城は空っぽであろうと…。そこで、その留守を気付かれずに襲うのでござる」

「敵に気付かれずに、襲えるのか? 10人や20人では無いぞ、何千人が動くんじゃぞ…。無理と思うがのう…」

黙ってしまっては負けである。
ダメだと言われても押さなければならない。
「誘い出すのでござる。半日後に分かっても、我が軍には半日の長が…。一日後なら、尚更でござる」
「なるほどな、それは理屈じゃな…。誰か他に、妙案があるものはいるか?」

「無いと見える。そんなんじゃ勝てんぞ…。長可は? どうじゃ?」
「池田殿の策、見事とお見受けする。それがしに、是非とも、ご先鋒を賜りたく…」
「それがしにも!」「それがしにも!」
と、そこここで声が上がる。

「皆の考えは分かった 明日の朝、作戦を申し渡す。そう心得よ!」
とお開きとなった。
4月になって直ぐのことであった。

秀吉軍は4月6日、夜を徹して行動を起こした。
岡崎城へ迂回路を取り、向かったのであった。
先頭から池田恒興隊、森長可隊、堀秀政隊、そして羽柴秀次隊である。
総大将は秀次であることは、云うまでもない。

家康の方はと云うと、翌日7日には情報は入っていたと云う。
農民・町人からも情報が集まっていた。
これは伊賀者を中心とする細作の力である。
家康軍も軍議を開いていた。

「秀吉は、岡崎を攻めると云う…。昨晩、出発したことは間違いない。そこでじゃ…、急ぐ故、考えを言う。」
と、いきなり切り出した。珍しいことである。

「秀吉は出ていない。まだ犬山にいる様子だ…」
「殿、それでは、秀吉に軍をこのまま向けるのが、又とない機会では…?」

「だまらっしゃい!!」
いきなり雷が落ちた。
「そういう作戦もあるにはあるが、儂はそれはしない! 良く聞け! 今は何が大事か?小城とは云え徳川の城を放って置いて、秀吉を撃っても、世間は認めんわ! 家康は部下を見殺しにして、自分の栄達だけを望んだのかって! 今は、徳川の城と家臣を守るのが、第一じゃ!! それが最高の戦略じゃ! 分かったな!」
いつにも無い強い口調で、家康は言い放ったのであった。

ここで、長久手の戦いの舞台を見ておく。

小牧からずっと遠く、東南の方向に三河岡崎がある。
その随分手前には、自動車産業でよく知られる豊田がある。
その更に手前に、以前に「愛・地球博」が開かれた会場がある。
その西が長久手古戦場である。リニアモーターカーの駅もある。
その少し南に、岩崎城がある。ここは日進市。
そして、小牧と長久手の丁度中間あたりに、小幡城がある。
長久手の戦いは、この小牧と岡崎を結ぶライン上で行われた。

池田恒興と森長可を先鋒とする秀吉軍、岡崎に向けて進んだ。
長久手を過ぎた。岡崎への奇襲なため、途中の徳川の城・岩崎城を見過ごして行こうとしたが、岩崎城から鉄砲を撃ちかけられた。

無視すれば良いのに、恒興の馬が撃たれたので、怒りのあまり、ついついここで戦端を開いてしまった。
兵の数が、10倍以上も違う。城を落とし、守将も討ちとったが、早朝2時間もの長居をしてしまったという。
岡崎城奇襲軍の意味を理解していない。

先頭はこうであったが、しんがりもしんがりで、秀次隊は白山林と云うところで、休憩していた。
そこを、追い付いた徳川の先頭、榊原康政隊に襲われた。
壊滅状態となった。
秀次は長久手方面へ逃げた。

榊原隊は、その前の堀秀政隊も襲ったが、それは堀隊が退けた。
この戦いの唯一の秀吉軍の勝利であった。
しかし、堀隊はそれ以上は進軍せず、北へ向けて退却したと云う。

同じころ先頭を行く池田隊には秀次隊壊滅の報が入っていた。 そうなればこれ以上の進軍は出来ない。
これも後退した。

後退して、長久手の仏ヶ根まで戻ると、既に家康軍は布陣していた。
恒興、長可も慌てて布陣した。

九千人同士の互角である。
違うのは、徳川軍は総大将、家康、信雄がいると云うこと。
秀吉軍は池田・森隊だけである。
これだけで、どちらが勝つかは、火を見るより明らかであった。
取り組む姿勢、勢いが違う。
違いすぎる。

2時間位の対峙があった。
森長可が敵の鉄砲で撃たれ死亡した。
これをきっかけに、もの凄い白兵戦となった。
両軍入り乱れての戦闘は、約2時間も続いたという。
結果、秀吉軍が壊走。死者は二千五百を超えた。
池田恒興、元助親子も戦死した。
それに反して徳川の損害は五百程度であった。
この、仏ヶ根で行われた白昼戦を『長久手の戦い』と云う。

家康の名を天下に高からしめた戦いであった。
以降、『野戦の達人』『街道一の弓取り』と恐れられたことは云うまでもない。
この後、家康は、直ぐに小牧山城へ戻ったと云う。

秀吉はと云うと、岡崎城奇襲隊の敗戦を聞き、救援に犬山楽田の本陣から向かったと云うが、途中で家康が小牧に戻ったことを聞き、楽田に戻ったと云う。
秀吉のこの余裕、何だったのだろうか? 理解に苦しむ。
秀吉はこの後、大坂に帰ってしまった。

その後は、西尾張、岐阜、北伊勢では、小競り合いは続いたというが、大きなことには至っていない。

この戦、家康・信雄に有利に展開していたが、秀吉は別動隊の蒲生氏郷らを動かし、伊勢湾にも水軍を展開するなどして、信雄の伊賀、伊勢の地を脅かした。

そして秀吉は信雄に、伊賀、伊勢半国の割譲と引き換えに本国安堵を条件として講和を迫り、成立したのであった。
その年の十一月、戦いから約八ヶ月後のことであった。

家康はこの講和を聞いて兵を引き上げ、浜松に帰ってしまったと云う。

秀吉は浜松へ使者を送り、家康との講和を試みたが、家康側から、次男・於義丸(結城秀康)を人質として差し出し、和議の形を取ったのであった。
このことで、戦いは終結となった。

その後、秀吉から家康への再三再四の呼び出しがあったが、応じなかったと云う。
この状態が、2年ほども続いたと云う。

それは、家康にも事情があったものと推察される。
大坂で旗を振るのも良いが、東国の現場を治めることの方が大切であるとの判断であろうか?

以下、余談である。
京・大坂には、秀吉に臣従する者しかいなくなった。
秀吉の勝手な振る舞いが続いて行くことになる。

秀吉が尾張への滞在中に、紀州の雑賀・根来や四国の長宗我部が、留守中の大坂を襲ったということを理由に、それぞれを攻撃し、滅ぼしたと云う。
この話は、また後日に…。
孤立させ、各個を撃破する。
この戦略がいつまで通用するのだろうか?
東国から家康がじっくりと眺めている。

も一つ余談。
織田信雄は一般に「暗愚の将」と云われている。
今回のように独断専行も多かったと云われるが、決して尖らない。
都度、何らかの決着は付けて、人の間を生きてきた。周りの手は煩わしたが…。
人思いの信長の血を引いているものと思われる。

また、情緒豊かで、能の名手でもあったそうである。
信長の子供の中で、江戸時代に大名として存続したのは、信雄の系統だけと云われている。
数ヶ所の藩を営んだりして幕末を迎えたと云う。

末裔に、フィギュアスケートの織田信成選手がいることは、良く御存じのことであろう。

〔完〕