中国の入口に備中高松城という清水宗治が治める城がある。
平地の中にある平城であるが、周りは沼や水路に囲まれた水郷が自然の要害となっていて、城へ通じる口は一つしかない、守りの堅いところである。

秀吉は播磨の武士達に加えて備前宇喜多秀家の兵で構成する新秀吉軍3万を率い、囲んではいたが、攻めあぐねていた。
官兵衛は考えた。
「この水郷を逆手に利用してやろうではござらぬか?」
と秀吉に持ちかけた。
「なんと…? 水没させるのか? それは良い考えじゃが、しかし人も金も要るぞ…」

「問題はそこでござる。人はともかく金でござるな…。播州で集めれば、これくらいは何とかなりましょうぞ…。拙者に考えがござる。早速、取り掛かりまするぞ」
と官兵衛には心当たりがあるのであろう…。
早速、播州に向かったのであった。

播州にはそれなりに大店がある。塩業で財を成している大店である。
官兵衛の懇意にしている主人達3名に声を掛けた。

秀吉に恩を売っておくことが、今後どれくらい役に立つか?
天下を取らせて見せるとまでも熱く語った。
「官兵衛に賭けるワ…」
と金を出してくれることになった。
おまけに予備金にと、官兵衛に預けてくれた主人もいた。

次は土木工事の方である。棟梁が要る。
揖保川や市川の改修を行った男が姫路にいる。
和田助左衛門という。
この男を連れて備中の高松まで戻ったのであった。

あらかたのことを秀吉と近習に話しをした。
その結果、人夫が集まった分から工事を始めることになった。
官兵衛は次の所用のため、摂津から京・安土へ向かったのであった。

城を囲む工事は、土を掘っては土嚢に入れ、積み上げると云うものである。
人夫への賃金は土嚢1つ当たりで支払った。
周囲はおおよそ3kmである。
1工区を10mとし、工区あたり6~7人の作業員とした。

近隣から必要な2000人の作業員が集まるのに、約半月を要した。
順次、掘っては土を7m程度に積み上げる工事が、着手から約1か月で完成したのであった。
後は雨降りを待つばかりとなっていた。

その間にも官兵衛は秀吉の使いとして、こっそりと伊丹の荘園領主の公家、京都に住まいする近衛前久(さきひさ)のところへ出かけていった。

信長軍秀吉隊は武力にて、伊丹を制圧しただけである。
本当の土地の所有者は、天皇・公家・寺社である。
この連係プレーが上手くいかないと軋轢が生じ、また戦となってしまうのである。
官兵衛はすべてのことに抜け目がない。

勿論秀吉側から提出するのは金銀である。
金銀は前久を満足させた。
それは誼を通じるには十分であった。

機嫌を良くした近衛前久は言わなくても良いのに、余計なことを言った。
「信長殿の振る舞いは、朝廷・禁裏を無視したものとなっておじゃる。朝廷では、不満が怒りに変わって来ておるところじゃて。信長を亡き者にと、一計を策するものもいるようじゃ。これから、どうなって行くか計り知れんが、ひょっとしたらひょっとするかも知れんのぅ…」

「大殿を殺めると云うことでござるか?」
「そうよのゥ…。どこまでの画策かは分からんので何とも言えんが、それなりに人も集めつつあるとは聞こえておる。御身も、羽柴殿もお気を付けられた方が良かろうと…」

この時より1ヶ月前、秀吉は大殿信長に、高松城攻めの報告をし、毛利の出現を懸念して、信長自らの出陣を頂戴したいとの願いを信長にしていたのであった。
信長出陣と云っても、信長軍の兵士は全て地方で転戦中である。
信長が安土から地方に応援に出かけると言っても、近習取り巻きだけを連れて行くしかない。
その時を狙われる可能性が高い。

ハッと思った官兵衛、急ぎ備中の陣に向かって、取って返したのであった。
帰る道々、万が一の場合、秀吉及び秀吉隊が京に戻れる沿道の手配をした。
夜間の明かりと兵糧の手配である。
播州内は官兵衛の顔が効くが、摂州内の西国街道沿いは、池田元助の配下、外交僧阮兆(げんちょう)に全てを任せた。

そして、姫路に駐屯させている秀吉正規軍一万に出陣の触れを行っておいた。
そこまで準備しておくと、万が一のことに対する憂えは無い。
官兵衛の最も忙しい日々であった。

官兵衛が備中高松に帰った時には、既に大雨が降った後であった。
城の周囲一面は水で囲まれていた。
作戦まんまと成功…。
官兵衛はほくそ笑んだのであった。
これをどう活用するか?
いよいよ、水攻めの仕上げである。

これで万事休すと見た毛利、和睦の使者を出してきた。
外交僧安国寺恵瓊である。

勿論応対するのは官兵衛であるが、勝っている秀吉方は強気である。
毛利が以降無駄な戦いを避け、備前・備中国を織田軍に譲り渡すようとの主張を譲らなかった。
一方毛利側は、城主の切腹にてことを終え、高松を両者の境界にして、以後は侵攻しないとの取り決めである。

毛利側は、今頃になって吉川元春の軍を近くまで出してきて、圧力を掛けている積りであるが、今さら遅い。

毛利の恵瓊もツワモノである。ナンのカンのと云う。
吉川に対する儀礼でもある。
交渉は決裂状態となっていた。

そこに姫路から、早馬で官兵衛に知らせが入った。
官兵衛は秀吉に耳打ちした。
秀吉は暫く考えているようであったが、姫路に向けて、護衛兵20を連れて、早々と出発した。

ここは官兵衛が収拾を謀らないといけない。
官兵衛は恵瓊に、
「大殿信長様の決断を申し上げる。今後も毛利殿とは仲良うにとのことで、今回は毛利殿の申し入れを受けよ。との御沙汰である」
「ありがたき幸せ…。そのようにさせていただきたく存ずる。大殿信長様には、感謝申し上げまする」
と恵瓊はそそくさと帰って行った。

あくるの日高松城外、小舟に浮かんだ城主清水宗治の姿があった。
その舟の上で切腹劇が行われたのであった。
潔い姿であったが、毛利の力の無さに無念であったろうと思われる。
これに先立ち、城内には秀吉から酒肴が届けられていた。

この日は丁度梅雨の晴れ間、長きに渡る戦いの終わりの日であった。
官兵衛は備前の宇喜多秀家に後の事は任せて姫路に向かった。
宇喜多は家臣花房正幸を高松城主にして、戦後の処理を行ったのであった。

官兵衛は信長の訃報に、秀吉を京都に向け走らせた。
そして官兵衛は考えた。
「ここは、家臣同士の先着競争である。真っ先に京に着いたものが次の覇権を握ることに間違いがない。家康…、勝家…、光秀…、信長の子達…、そして秀吉…。家康だけは厄介だぞ…。それ以外は何とかなる」

先ず光秀が京都に入った。それも軍を率いている。
「そりゃそうであろう。中国援軍の準備をしていたのであるからな…」
官兵衛が摂津の湊辺りに到着した時に、光秀は既に京を制圧したと云う話を聞いた。

秀吉は、京の南の茨木辺りまで来ていた。そして旨い具合に丹羽長秀・織田信孝の軍と合流できていた。

光秀をどうするか?
官兵衛の当面の課題である。

細作(スパイ)30名を京に侵入させた。
噂をまき散らす為である。
諸侯にも密書をばら撒いた。
『信長を殺めたのは、光秀である。』と…。
2日もすれば、その噂は広まった。

もちろん、近衛前久のところにも行かせた。
『秀吉は織田信秀を奉じて、奸族光秀を討つ。信長公の弔い合戦である。』
との書状を持たせた。
朝廷・禁裏に話を通しておいて欲しい。
そのような意味である。

光秀側にも情報を流す必要がある。
『秀吉が京を奪うために攻め上って来る。今にも京へ乱入しそうである。』
これも細作を使って流した。

朝廷からも光秀に、
「逆賊秀吉を討て!」
という勅命が出たそうである。前久の力であろう…。

準備はできた。
気になる家康は三河に帰り、軍を整えていると云う。
あと数日で、京に上って来るであろう。
それまでには決着しておかなければならない。
官兵衛の頭は大回転であった。

秀吉軍は動き始めた。
一方、光秀軍は、京都・摂津の国境、山崎の津まで出て来ていた。
これを蹴散らすのは難しくはない。
少し押して、天王山の向こうまで退却させた。

秀吉は天王山に陣を張った。
官兵衛は、本陣を戦場から良く見える高台に作った。
ここに、信秀、秀吉の旗を立てた。

ここまで準備ができた。
もう申し分ない。

地の利がある光秀軍、斎藤利三を大将に河原に陣を張った。
誘い込もうと云う手である。

秀吉軍は川筋を進むと見せかけ、実は主力は天王山越えで、斎藤隊の横っ腹を
突いたものだから堪らない。
斎藤隊は川へ川へと押し込まれてゆく。

勝敗は時間の問題である。
利三が殺られたと同時に、光秀軍の潰走が始まった。
蜘蛛の子を散らすようであった。
しかし、秀吉軍は深追いはしない。
天王山に再び落ち着いたのであった。

さて邪魔者はいなくなった秀吉、京へ上るのが常道であるが、そこは朝廷・禁裏に気を使うことにした。
当面は、軍を光秀の亀山城や坂本城に差し向け、明智一族を捉まえることに終始したのであった。

秀吉としては、してやったりと云うよりも、官兵衛に上手く乗せられて来た、と云う感覚であった。
「こやつ(官兵衛)に軍を与えたら、たちまちにして天下を取ってしまうワイ。」
と思ったのであった。

その証拠に、最大の功労者である官兵衛には、殆ど恩賞を取らさなかったのである。
このあとは、秀吉は天下人への道を登って行く。
それにつれて官兵衛の力も大きくなっていくのであるが…。

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