1605年、征夷大将軍を我が子、秀忠に譲って、将軍の徳川世襲制を明確に打ち出した家康であるが、徳川の幕藩体制の枠組みに、迷っているところがあった。

豊臣家をどう扱うか? それが、大課題であった。

側近の本多には、
「出来るものなら、残してやりたいものじゃが…、それにはな、大坂城のままというわけにはいかん、大和の藩主ぐらいでまとまらんかのう?」
「御意、それで豊臣が納得するなら、この上なきことでござる。御妙案をお考えのようですな」
「その事じゃが、高台院殿の力を借りて、と思っておる。高台院殿に、説得に行くように言ってくれんかのう」
「御意、早速お手配つかまつるべく…」

高台院とは秀吉の正室「おね」のこと、高台院も豊臣家の存続に頭を悩ましていたので、2つ返事で、家康の使者として大坂城へ向かったが、淀殿に、
「ならぬ、ならぬ、秀頼殿は関白、何で家康ごときの家来になれましょうや」
と云われ、話にもならず、おねは帰って来た。

この時点でも、家康はまだ諦めなかった。

それから、5年ほど経って、天皇位が後水尾天皇に譲位され、その慶賀のために上洛した家康、再び秀頼に臣下の礼を取らそうとした。
今度は、加藤清正や浅野幸長の取りなしで、二条城に秀頼はやって来たが、臣下の礼を取らすまでには至らなかったと云う。
それでも、面会が実現できたのは、融和に一歩前進であったと考えられていた。

しかしその後、加藤清正、池田輝政、浅野幸長、前田利長など、豊臣恩顧の大物が次々と亡くなって行くと、豊臣家は、孤立感を深め、朝廷から勝手に官位を貰ったり、武器・兵糧の調達や浪人を集め出した。

家康の決断の時は来た。
それは「豊臣家、取り潰し」、それも城も人も豊臣の血を継いでいるものは、一切生存を許さずの方針であった。
残すと将来の徳川家にとって、どんな禍根が降りかかってくるかも知れない。
それは、きっぱりとした決断であった。

大坂城壊滅大作戦を挙行することになったが、どうすれば潰せるか?

秀吉が大坂城を建てたころ、自慢げに家康に言ったことがある。
「家康殿、この城でござるが守るには固く、攻めるには難しく造ってある。そんじょそこらのあたり城とは訳が違うでござるよ…。そんな簡単には落ちないからのう」
「さすがに関白殿 万事抜かり無くでござるのう…」
「ところがじゃ家康殿、この城を落とす作戦が一つだけあるのじゃ。それはじゃ、一挙に形を付けようとはしないことじゃ」
「はて、その作戦とは?」
「この城の武器は、堀じゃ。堀を埋めれば、普通の城と一緒じゃ。一度目の戦で、痛み分け和睦で、堀を埋めることじゃ。二度目は本番じゃな、邪魔な外堀はない故、真近から大砲が撃てる。そうなると、落城は時間の問題じゃ」
「なるほど、関白殿の堀の知恵、恐れい入りましてございまする」

設計者が、落城の方策を教えてくれていたのを思い出した。
二段階攻城作戦、この作戦で行くことにした。

家康は、武器のうち、国友鍛冶に大砲を、合わせてイギリス、オランダにも大砲を発注した。

大砲が揃い次第、作戦開始と決めた。
家康はいきなりは襲わない。
律義に開戦の口実を設ける。

豊臣は、秀吉の追善供養ということで、主に関西の寺社に寄進をしていた。
寺社の新築・再建・修復などである。
その数100件近くだったと云われる。

その中に京都の方広寺の再建もあった。
その梵鐘の銘文にいちゃもんを付け、開戦の口実とした。

もし家康がこの銘文「国家安康」「君臣豊楽」が家康を呪っていると考えたのなら、直ぐに撤去させた筈であるが、現在でもその梵鐘が残っていることは、本気で思っていなかった証拠であろう。

賤ヶ岳七本槍の一人で摂津国茨木の片桐且元という藩主がいる。
豊臣方ではハト派である。
且元は、この方広寺鐘楼建設の総奉行であったが、この銘文の件にて、家康に駿府に呼びつけられた。
且元は行ったはいいが、家康に籠落され、密約して、大坂に帰って来たと云う。

大坂城に帰って且元は、家康の条件として、
「秀頼を江戸に参勤させる」
「淀殿を人質として江戸に置く」
「秀頼は国替えに応じ、大坂城を退去する」
この三つを飲めば、鐘の件は不問に付すと言われていると、報告した。

到底呑めるはずのない条件である。
豊臣方はこれを戦線布告と受け取り、戦いの準備を始めたのであった。
と同時に、且元などの和平派を追放した。
その時には、織田信雄、石川貞政なども大坂城を後にしたと云う。

豊臣方では、武器・兵糧・浪人を急ぎ集めた。
浪人の中には、真田幸村を始め長宗我部盛親、後藤又兵衛、毛利勝永、明石全登、塙直之、大谷吉治などの、超有名な関ヶ原浪人がいた。

戦法の軍議が城内で行われた。
大坂城宿老の大野治長達は籠城を主張したが、一方、浪人達は野外戦闘を主張した。
京に入る大津の瀬田川や大坂にはいる大和口で戦い、敵兵を疲弊させてから、形勢悪しとなれば、籠城するという案である。
結果、周辺に砦を築く事をプラスして、大野らの籠城案に決まった。

家康は1614年の10月に駿府を出発し、京の二条城に入った。
そのころ、秀忠が6万を率いて、江戸を出発した。
大坂冬の陣である。
家康の狙いは、和議にて堀を埋めることであるので、大砲を撃ち込める所までの前進が目標、大きな犠牲を払う積りはない。
豊臣方が籠城策を取ってくれたら有難いと思っていた。

本陣を住吉大社のかつての南朝の御座所、正印殿とした。

豊臣方の築いた砦で、小戦闘が行われた。
城の西側の木津川口や野田・福島、東側の鴫野・今福の戦いである。
徳川軍は難なく勝利をおさめたが、手こずったのは南側、真田丸砦である。
真田幸村隊の勇猛果敢な戦いに、徳川方は大きな損害を出したが、それも時間と共におさまり、豊臣方は籠城した。

家康は本陣を天王寺の茶臼山まで前進させ、同時に秀忠本陣も岡山とし、徳川方は20万の大軍で大坂城を取り囲んだのであった。

待ちに待った大砲の出番である。
英国製カルバリン砲、蘭国製半カノン砲を撃ち始めた 12月の9日である。

大砲100門を装備し、昼となく夜となく、城内に向かって撃つ。
そして、3時間程度の間隔で、城壁の所で、大人数で鬨の声を挙げさす。
城内を眠らせない。そんな単純な戦法である。
合わせて、投降を促す矢文も撃ち込んだ。

半カノン砲は強力であるが、狙いを定めるには、横からの観察が必須である。
少しづつ調整しながら撃ち、やっと狙いの本丸にも当たり始めた。
もちろん、英国や蘭国の技術者の現地実戦指導もあった。

城内では淀殿が怖気づいたのか、
「和議じゃ!、和議じゃ!」
と騒ぎ始めた。

和議は、豊臣方は淀の妹、お初「常高院」と徳川方、本多正純、阿茶局との間で取り交わされた。

それには、
「秀頼の身の安全と領土の安堵」
「淀の代わりに、大野治長、織田有楽斎よりの人質」
「本丸を残して、二、三の丸の撤去と外堀の埋め立て」
「城内諸士の不問」
という、家康の思惑通りになったのであった。

和議に基づき、徳川方は町人まで大動員を掛け、堀や城の破壊を行った。

豊臣方からは、「行き過ぎたる所あり」のクレームがついたが、無視して進め、あらかたの目処がついたところで、徳川軍は引き揚げた。

翌年4月、家康は名古屋城主、徳川義直の婚儀のために、駿府を出発した。
家康は、豊臣方が浪人を未だ城に抱えたままになっているのは、和議違反であると考えて、その旨通告していた。
京都所司代から、
「浪人が市中にて乱暴・狼藉、放火、そして堀の埋め戻しなど、幾多の悪行を働いているが、如何したものか?」
という報告・問い合わせがあった。

これに対して家康は、豊臣方に「浪人の解雇、秀頼の移封」を通告した。
大野治長がやって来て、「移封は辞去したい」と申し出た。
戦線布告である。
家康は先ほどの常高院を使者として、
「その儀については是非無き仕合わせ、と存じ候」
と、丁寧に開戦布告をしている。

4月22日に、二条城に集結した家康、秀忠、そして諸大名、軍議を行った。
「今度は、豊臣家殲滅の戦いである。従って、一切の容赦はしない  そう心得よ!!」
京からの軍は、奈良から生駒を越え大坂に入る河内口、奈良南部から大和川沿いに入る大和口、そして紀州から北上する天王寺口、の三方向から向かうことになった。

5月5日に家康は二条城を出発した。
家康は大和口より、前と同じように住吉に向かった。

今度の戦いの豊臣方、本丸だけの大坂城では、籠城はとても無理、野外戦で闘うしか方法はない。
三方向の徳川軍を待ちうけることになった。

豊臣方に大野治長の弟、治房という武将がいる。
結構、喧嘩好きでハネ上がりである。
軍を率い、生駒山を越えて大和の筒井の城、郡山城を落とし、大和の町を焼き払った。
それに続いて、堺の街も焼き払ったと云う。
ここまでは良かったが、調子に乗って、紀州から北上する浅野軍と泉州樫井で戦い、塙直之、淡輪重政を失い、ずるずると大坂に引き上げた。

大和口では、後藤又兵衛が伊達正宗、水野勝成隊3万5千と戦い、憤死した。

また、八尾・若江では木村重成、長宗我部、増田隊が徳川本隊12万と戦ったが、これも殲滅され、重成は闘死した。

なぜこうなるのか?
寄せ集め軍の哀しい性(さが)である。
全く統制が取れていない。
状況分析・情報も無いまま、勝手に戦いを始めたり、単独行動に走るからである。
戦国の最後らしく、立派な戦いを見せて欲しかったが、嘆いても、もう遅すぎる。

真田幸村と云う男、こうなったら家康の首だけを狙っていた。
豊臣方は決戦すべく、天王寺、阿倍野、平野辺りに集結した。
家康も本陣を前進させ、天王寺に迫っていた。
先峰は松平忠直、その後ろに、浅野と大和口から来た伊達・水野の合計5万、その後ろに家康が控えていた。

幸村は、毛利隊・大野隊が徳川軍と戦っているその中を縦一列真一文字に家康目掛けて突っ込んだ。
家康の姿が間近に見えるところまで行った。
家康の旗本連中は、真田の勢いに恐れをなし、うろたえるばかりで、家康はその時、死を覚悟したと云う。

そんな時、近習の小栗某、
「殿、お逃げなされ! 秀忠様の陣までお伴つかまつる」
近くにいた旗本達、家康やっとのことで馬に乗せて、馬の横腹を思いっきり蹴ったという。
周りを数騎で囲み、秀忠の岡山の陣まで、一目散に駆けた。

幸村は深追いは出来なかった。
あまりにも味方が、少ないのに気付いたからである。
茶臼山に向け引き返した。

その後、幸村は陣のあたりで、休んでいるところを敵の雑兵に襲われ、絶命した。

それを境に、大坂城包囲網が急速に狭められていった。

家康は、
「秀頼よ出てきてくれ! 出てくれば淀は助けられる。助けてやりたいのじゃ!」
悲痛な叫びでもあった。
しかし、出てこない。最後まで出てこない。
大坂方は、秀頼が手元にいる限り何とかなると、甘い考えを抱いていた。

城内からは、既に火の手が上がっていた
家康の手元には、お初・お江からの、淀助命の嘆願が山ほど来ていた。

そこに、秀忠・お江の娘、秀頼の妻、千姫が城から出てきた。
家康の顔を見るなり、
「淀殿を…」
「秀頼もいるのか?」
「はい…」
「下がって、休め」

家康は、淀を助けるのはもう無理と判断した。
しかし一縷の望みはまだ持っている。
「片桐! お主、淀のいるところ分かっておろう」
「鉄砲を打ち込め! じゃがな、一時で良かろう。脅かすだけじゃ…」
「御意…」

程なく、天守閣の直下、山里曲輪に銃弾が打ち込まれた。
弾を撃ち込まれて淀は、いよいよ最期の時が来たのだと悟った。
「父も、母も、このようだったのか…」
と、思って涙が出た。
後は、妹達に託すのみであった。
天守閣から炎が降って、曲輪にも火がついた。

家康の心残りを余所に、 大坂城は明々と燃え上がったのであった。

〔完〕

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