1
天下人になった秀吉は、大坂城そして伏見にも屋敷を建てて、権力を誇示した。
伏見の屋敷は地震でつぶれたので、関ヶ原の3年前、1597年に、伏見桃山の丘に、現在のものとは場所が違うが、伏見城を建設した。
歴戦の強者である秀吉が、自ら設計した難攻不落の造りだったと云われる。
伏見城完成からわずか一年後、秀吉は他界した。
亡くなる間際には、家康など大人達に何度も何度も、
「秀頼をお頼み申す 皆で助けてやってくれ お頼み申す」
と云いながら、何枚も誓紙を書かせたそうである。
その大人達とは、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・小早川隆景・上杉景勝・毛利輝元ら、のちに五大老と名付けられた大名達である。
秀吉の死後、秀頼は大坂城に移って、天下人の住まいとした。
家康は、伏見城を政務の事務所と定め、大坂城にも豊臣政権の総元締めとして登城した。
「このままの状態が続く筈はない」
「こんなまどろっこしいことはしてられない」
と伏見と大坂の往復で思いながらも、秀吉の遺言であるので、家康は律義に守っていた。
しかし、そのうちに、家康のやり方に反旗を翻す輩も目立つようになった。
面と向かって、悪タレをつく者もいた。
前田利家の存命中は、
「まあ、まあ、まあ」
と言って、穏やかなるべく取り持ってくれたが、他界してからはそれも無くなった。
家康は、ことを構えるタイミングを探していた。
先輩を何とも思わず、独断専行する事務屋の石田三成を、役職を廃して、居城、佐和山城に戻した。
大坂に出て来ない上杉景勝には詰問状を送ったが、なしのつぶて、返事がない。
「そうじゃ、これを口実とするのじゃ…」
家康は豊臣家を代表して、諸侯を引き連れて会津上杉征伐に行くことにした。
家康が、大坂を離れれば、反家康の輩は、今こそと挙兵するに違いないと考えたからである。
しかし、問題が一つある。伏見城である。
蜂起した輩は、伏見城を襲うに違いない。
そうなったら、守らないと大義名分が立たない。
上杉討伐に向かう為、大坂城にて、秀頼から「討伐命令書」を貰い、秀頼には丁寧に挨拶を済ませ、伏見城に戻った。
守備隊総大将は鳥居元忠、加えて内藤家長、松平近正、家忠と決め、鉄砲200丁も預けた。
家康は、
「4人には、会津への討伐がかなわず、人数も少なく、苦労かけるのう…。しかし、貴殿らを残すことに決めたのは、よくよく考えてのことじゃ」
元忠、
「殿、そんなことはござらん。会津攻めは大事な戦、一人でも多く連れて行かれるべきじゃ…。京・大坂が平穏ならば、拙者と近正だけでことは足り申す。じゃが、殿が出て行った後、敵の大軍が押し寄せれば、近くには後詰めを頼む見方もござらん。守り通すのは無理でござる。貴重なお見方をこの城に残すのは無益なことでござる」
この後は、家康、元忠主従、昔話に花が咲いたという。
元忠は、家康の今川人質時代の10歳の頃からそばにいて、仕えてきた。
少年時代は遊び友達、その後は、いつも家康のそばで戦ってきた。
武田信玄との三方ヶ原の戦いで足を負傷し、少々歩行が困難ともなっていた。
そんなことを思いだしながら…、
「殿、明日は早ようござる故、もうお休みを…」
と座を立とうとしたが、上手くいかない。
「皆で、手をかしてやれ!」
小姓らに支えられて、去ってゆく元忠の後ろ姿を見て、一人残った家康は涙が止まらなかったと云う。
2
あくる日、6月18日、家康は、守将4人に見送られ、堂々たる陣容で、上杉征伐にと出発したのであった。
元忠は身震いすることしきりであったが、しかし涙はこらえたと云う。
江戸に着いて、秀忠を会津に先に行かせて、家康は江戸で留まった。
家康は今か今かと待っていた。
7月24日、元忠から、早馬が来た。
元忠の書状には、
「殿にはご機嫌うるわしゅう。三成挙兵、伏見に向け行軍の様子、4万の大軍と聞こえ候。こやつらを、出来るだけ長く引きとめて見せようぞ。殿とは、今生の別れでござる。必ずや、立派なご治世を期待申す」
4万の大軍が伏見城に押し寄せた。
大将は宇喜多秀家、副将小早川秀秋、その他毛利秀元、吉川広家、小西行長、島津義弘…など、壮々たる陣容に見える。
しかし、やる気の無い将の方が多かった 付き合い出陣である。
城側は4人の将と手勢1800人、それと堅固な城、これだけである。
話は少し横道に逸れる。
宇治で古くから茶業を営む「かんばやし」と云う銘茶の店や博物館を構える会社がある。
かんばやしのずっと先代に、上林竹庵と云う元徳川武士がいた。
既に茶人となり、号は竹庵、茶業も営んでいた。
この竹庵、伏見籠城の噂を聞き、城におっとり刀で駆けつけた。
「鳥居殿、拙者を籠城戦のお仲間に…。殿の家康殿には、大きな恩義がござる故…」
「竹庵殿、貴殿はもはや町人の身でござる。町人まで巻き込むのは、本意ではござらん早々に帰られよ」
「何と言われる、殿への御恩返しは今こそござらん。お返事頂戴つかまつる。でなければ今ここで腹を切る」
詰め寄られて元忠は竹庵の籠城を許し、太鼓丸の守備隊長としたという。
更に、甲賀者5~60人を引き連れた深尾清十郎も、籠城を許された しかしこれが命取りになった。
さて本題の伏見城攻め、7月19日から始まった。
あらゆる場所から攻めてくるから、堪ったものではないが、もう10日も持ちこたえていた。
寄せ手側は、攻めても攻めても結果は出ない もう疲れきっていた。
籠城側も疲れてはいるが、死ぬ気で戦っているため、それは感じない。意気揚々であった。
ここで策を弄したのが、攻め手の甲賀水口城主の長束正家、籠城側の甲賀衆に一計を画策した。
「火を放ち、寄せ手を引き入れよ。さもなくば、国元の妻子一族を皆殺しにする」
と汚い手を使う。
「今夜、亥の刻に内応する」
と返事が来た。
翌朝、火の手が上がった。
甲賀衆は混乱に紛れて、石垣を崩した。
西軍が次々なだれ込んだ 守将は次々に撃ち取られた。
松平家忠、松平近正、上林竹庵、それでも、元忠は本丸で奮戦した。
200名で西軍を3度も追い返したという。
しかし、もう周りには10人程しかいなくなっていた。
元忠は力尽きて、長刀を杖に、石段にドッカと寄りかかった所であった。
そこへ、雑賀重朝が現れた 三人いると云われる雑賀孫市の一人である。
元忠はゆっくり立ちあがり、
「我こそは、伏見の総大将、鳥居元忠である!」
雑賀は、膝まずき、
「鳥居殿、伏見の城は燃えてござる お静かにご自害を!」
元忠は、「うん」と頷き、兜を脱いだ。
見事な切腹であった。
伏見の城は、落城した。
3
この壮絶な戦いで西軍は疲弊し、直ぐには立ち上がれなかった。
元忠や家康の目的は大いに達したのであった。
西軍のこの足止めが、40日後の関ヶ原に尾を引くことになる。
伊勢や美濃への攻め込みが出来なかったばかりではなく、家康一流の調略作戦の渦にも巻き込まれてしまった。
毛利一族を始め多くの武家が家康に内応して、関ヶ原を迎えたのであった。
本丸は燃えなかったが、板の間には元忠始め多くの武士の血痕が残された。
それを血天井として、京都の西賀茂正伝寺、鷹ヶ峰源光庵など数ヶ寺に現在も残されている。
また、元忠の血染め畳は家康が江戸城に持ち帰り、伏見櫓に収めて、元忠の精忠を偲んだと云われる。
家康は、伏見に籠城した将達の子弟をば手元に置いて、決して危ないところには行かせず、この後それぞれ加増して、家を継がせたと云う。
お茶の上林一族には、宇治茶の総支配を仰せつけ、宇治代官に任じて宇治茶を重用したと云う。
また、将軍家光は、将軍家のお茶を宇治から取り寄せる豪華な行列「お茶壺道中」を行ったのは有名な話である。
上林一族は禁裏御所御用、幕府御用の茶師となり最高の位の御物茶師として、江戸時代を送り、今もその伝統は継続している。
家康の心にくい気配り、この心が徳川時代を長くさせたものと思われてならない。
伏見城はその後、家康の命によって、藤堂高虎が再建した。
家康はこの伏見城にて将軍宣下を受け、大坂の陣のころまでは居城としたが、新たに二条城建設後は廃城とされ、その遺構は今も伏見時代の文化財として、多くの社寺で生きている。
話は長くなるが、現在ある伏見城は、先ごろ廃園となった「伏見桃山キャッスルランド」と云う遊園地のシンボルとして建てられた。
模擬天守というものである。
建っている場所も、元忠や家康当時とは違うが、周りから眺めると堂々として、いかにもその当時の、景観を再現しているようには思える。
一方、取り壊すべしとの意見もあるが、市民の方々の願いや京都市の計らいで、今も京・大阪を見おろすが如くに建っている。
〔完〕