公家の如く、お歯黒を付け、置眉、薄化粧をし,「麿は・・・、おじゃる」、としゃべる。
軟弱モノというイメージの武将・今川義元であるが、それは趣味の世界のこと。
実際は「海道一の弓取り」と云われ、周辺の武家からは恐れられていた。

若いころ京都五山に留学して中国の兵法も学び、戦略にも長けていたと云う。
この今川義元、領国は駿河・遠江、しかし、これだけでは飽き足らず、西隣の三河、更にその西の尾張の一部も版図として、権勢を振るっていた。

後の徳川家康、岡崎松平家の嫡男・竹千代を今川家への恭順の人質として、駿府に住まわせ、今川軍団の将として、戦いにも駆り出していた。

今川の領国は東は北条氏康の相模、北は武田信玄の甲斐と接しているが、これら領主との同盟も成立し、後顧の憂いも無くなったので、更なる領土拡大を目指し、西の尾張への侵攻を開始したのであった。

上京目的の進軍との説もあるが、それほどの荷駄や食料も準備していない。
また、伊勢や近江の街道筋の武将にも、工作などしていないことから、先ず尾張を手中に、が狙いであろう。

出発は1560年の5月半ばのことであった。
2万の軍を引き連れ、三河、尾張の国境の出城・沓掛城に向けて進軍していた。

その時の尾張の領主は織田信長、まだ若き27歳であった。
前の年に信長は初めて上洛し、13代将軍義輝に拝謁しているが、それはそれとして、この話にはあまり関係がない。

この時代、国境付近には互いに城や砦を築くのが、普通であった。
敵の動きを察知するとか、敵が攻めてきた時には、防御するとか、攻める時には橋頭保にするとか、多目的であった。

三河から尾張国境を眺めると、このようになっていた。
今川の出城は右手前に沓掛城、この付近から向こうは桶狭間の丘陵地、桶狭間の左手向こうに大高城、更にその北西に鳴海城がある。

現在の場所で云うと、JRA中京競馬場を遠巻きに囲むようにこの3つの出城があり、競馬場の南方向が桶狭間の戦場である。

桶狭間山の頂上付近は、義元が本陣を置いたと云われている真言宗高徳院がある。
現在は、その山頂の寺院を取り囲むように住宅地が広がっている。
そのため、戦場を眺めて過去の戦いを想像することは、もう不可能ではある。

義元はこの出城伝いに進軍し、那古野城、清州城を手中にする予定であった。

一方、尾張側から見ると、手前から、鳴海城に対峙する丹下砦、善照寺砦、その先に中島砦、更にその先が、2キロ半ほどで桶狭間である。
また、右手の大高城に対峙する鷲津砦、丸根砦を守っている。

信長という武将、直情型と云われ、作戦も練らずにそのまま飛び出して行くようなタイプに思われているが、事実は違う。
動く前には綿密な作戦を決めている。
周りの者には云わないし、軍議も形だけだから、そう思われているだけである。

この世の中、敵への内通が日常茶飯事。
作戦が何処から漏れるかわからない。
信頼のおける者とのみ、常に戦略談義は行っているのである。

信長の参謀に、幼いころから養育係も務めた沢彦宗恩(たくげん そうおん)がいる。
信長の性格も性癖も知り尽くした相談役である。
この沢彦、あの
『安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦自ずから涼し』
で知られる妙心寺、快川禅師と兄弟の契りを結んでいる人物である。

信長は細作(忍びの者)はたくさん使っている。
情報収集と敵の撹乱である。
今川領内には数十名の細作を放っており、義元の動きは手に取るように分かっていた。

いよいよ義元が駿府を出立したと云う報に、信長は沢彦を呼んだ。
場所は清州城である。
「義元めが、儂を殺しに来ると云うが…」
「この尾張の国が欲しいと見えまするな…。お館は若き故、これ見よがしに踏みつぶしてしまう考えでありましょうや。」
「じいなら、どうするのじゃ?」

「お館、敵は我が方の作戦を籠城と見込んで、その装備をしてござる。荷駄隊の持ち物をみれば、わかるでござるよ。我が方は、籠城しても援軍の期待も無きに等しいと…。時間と共に疲れ、城を明け渡すのが、落ちと思われるが・・。」
「そんなことは、わかっておるわ!!結論を早く言え!」
信長はもう苛々している。

「野外でござるよ。お味方の砦と敵が戦っている真っ最中に、義元本隊を狙うのでござる。場所は、中島砦の先が良かろうと存ずるが…。も一つ、言い忘れるところでしたな。あの辺りは海に近い。汐の干満で、川に汐が逆流する場所でござる。満潮時を狙えば、敵の渡河進軍も、ままならぬと存ずるが…」

「わが軍は5千である。2千を分割して、それぞれの砦に張り付ける。1千は囮・遊軍である。砦の周りに敵を釘付けるようにさせるか…?
儂と一緒に、義元に突っ込むのは2千になるな。それで良かろう! 砦の総大将は佐久間信盛に申し渡しておいてくれ! 明日、軍議!!」

その頃、今川軍は沓掛城に入っていた。
軍議にて、先鋒や出城守備隊が決定、布陣に向け動き出そうと云う頃であった。

ちなみに家康は大高城守将と決められ、その後、荷駄・食料を運び入れたと云う。

今川軍各隊、布陣を終えた頃、義元本隊は本陣の場所を沓掛城から布陣全体を見渡せる桶狭間山山頂まで動かした。
60~70mの丘であるが、兵から本陣が直接見えるという事は、この時代、非常に大事なことである。

お館様が直接見ているからこそ、恩賞をめぐって兵の働きが倍化する。
18日の夜、清州城で軍議が行われた。
信長は、
「明日は義元の首を持って帰るぞ・・!! 皆の者、勝った者だけが、ここに帰って来れると思え!! 但し、援軍を求めるような、見苦しい真似はするな!!
さあ、行こうぞ!!」
「オゥ!!!」
これだけである。
その後、信長は幸若舞『敦盛』を舞って、お開きとなった。

各隊、明日の朝の出陣に備え、しばらくの間、城内で小休止した。
翌、19日早朝、薄明かりの頃、湯漬けを食すや、織田軍は出陣した。
信長本隊は各砦の戦いが佳境に入ったのを待って義元本隊に攻撃をする予定であるので、まだ余裕はある。

先ず熱田神宮に向けて、信長と馬廻り3百騎が駆け、戦勝祈願をした。

その後、すぐ南の上知我麻神社にも立ち寄った。
それは時間調整であった。
その間にも細作から情報は入って来る。

辰の刻(8時)になって、どうやら、
信長軍砦への攻撃が始まった様である。
信長本軍はその後、善照寺砦に向かった。
そして中島砦に入り、隊列を整えた。
攻め口も決めた。

信長は小隊長達を集めて作戦を授けた。
「隊ごとに、バラバラに、あの桶狭間の山の麓に行け! 決して、真直ぐ行くのではないぞ…。 砦の援軍のような振りをしてな…。 あっち行ったり、こっち行ったりして、うろうろしながら行くのじゃ!! 集結は出発してから、半時後
遅れるものは許さん!!」

砦の攻防戦は、そう簡単に決着がつくものではない。
そろそろ佳境に入り、信長軍が押され始めていた。

「まだ、待て」
信長にしては、珍しく待たせた。

そのうちに昼になった。

義元は砦の攻防戦が有利に展開されているのを眺めながら、上機嫌であった。

信長は、砦は後一時間位は頑張れるであろうと思った。
昼を境に信長本隊は動きだした。
義元本陣を目指し、小隊毎に勝手にジグザグしながら進んで行く。

丁度梅雨の時期、雨が降って来た。
それもかなり激しい。
戦場は西向きである。
西からの風も強く、
義元は戦場を見ていられなくなって、しばし休息した。
信長にとっては追い風、雨に隠れて、進軍した。

そして、桶狭間山の下に全隊到着、布陣した。
但し、全周は囲まない。
一部逃げ道は作ってある。

雨が小止みになったのを見て、
「かかれ!!」の号令がかかった。

信長軍の2千人、一斉に山頂目指して駆け登る。
戦勝気分の義元本軍はまだ気付かない。
さっきから信長軍が砦のあたりをあっち行ったりこっち行ったりしていたのは見えていたが、遊軍だと思っていた。
まさか、織田本隊がここまで来ているとは想像だにしていなかった。
あくまでも、籠城していると思いこんでいたので、気がつかないのはしようがない。

間近に人影が確認できるまでになって、鬨の声をあげて、織田軍は突入した。
驚いた義元本隊、後衛の荷駄隊や賄隊は直ぐに逃げ出した。

遠征軍であるので、後衛も数が多い、
今川本隊の5千の内、半数ぐらいはそれである。
後衛部隊の逃亡につられて、戦闘員も逃げた。

30分ほどの戦闘ののち、数えてみれば、義元の周りには300位の兵しかいなかった。
それも、最後は30くらいになっていた。
信長の親衛隊に周りを囲まれ、毛利新助というものが討ち取ったと云われる。

この間、信長自身も義元に近づく今川兵を切り捨てていたと云う。
「義元の首獲ったり」という報が、今川軍各所に伝播した。
今川軍は戦闘を止めて、壊走したと云う。

唯一つ、逃げない城主がいた。
鳴海城である。
城主岡部某は、逃げずに頑張っていた。
城明け渡し交渉にて、義元の首と引き換えにと云う条件にて、決着がついたと云われる。

この戦い、織田軍の勝利には終わったが、犠牲者も多かった。
織田の各砦はほぼ全滅、囮軍・遊軍も引き付けるだけ引き付け、ほぼ全滅。
悲惨な戦いではあったが、その歴史的意義は大きかったと思われる。

この戦いを境に、今川家は衰退を始める。
家康も今川方が逃亡した三河岡崎城に帰り、三河の国主となった。

そして織田・徳川同盟が成立し、連合して駿河の今川、岐阜の斎藤から
それぞれの自国を守ったのであった。

その後、信長は美濃の稲葉山城を攻め、斎藤龍興を敗走させ、美濃も自国とし尾張・美濃の2国を治めることになったのである。
その時、信長は33歳であった。

当時、美濃の中心、城のあたりは井の口と云っていたが、岐阜と改めた。
沢彦宗恩の命名である。
岐阜城は、一方は崖、もう一方は大河長良川、難攻不落である。
そして美濃の国は、いくつもの大河が流れる富裕の地、農産物に恵まれてる。

信長はこの地を足掛かりに、更に大きな夢に向かって、西に想いを馳せるのである。

〔完〕