『行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮ぶ泡沫(うたかた)は、かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたる例(ためし)なし。
世の中にある人と、栖(すみか)とまたかくのごとし。

玉敷(たましき)の都のうちに、棟を並べ、・・・・・ 』

良く知られている「方丈記」の冒頭の部分である。

川を流れている水は、先に流れたものと同じ水ではない。
また淀みに浮かんでいる泡は一方で消えたかと思うと一方で浮かび、
入れ替わって、いつまでも同じものではない。
常に次々と変わっていくものである。
世の中も人もその住み家も同様で、無常なものである。

と書き記している。

この方丈記の著者、鴨長明(かものながあきら)は、京都下鴨神社の
禰宜(ねぎ)の次男として、北方の泉の禰宜の館で生まれたと云われる。
下鴨神社の禰宜の嫡子は神職の道にはいるのが常道である。
長明は子供の時から修行の道に入ったのであった。

しかし「方丈記」の書かれたこの時代、即ち鴨長明の生きた時代は
平安末期から鎌倉時代にかけての頃で、一口で云うと、源平の抗争による
大動乱期に当たっていた。

長明の生まれた1155年には平清盛が平家一門の棟梁となったが、まだ力はなく、天皇家、特に後白河上皇をめぐって、都では動乱が数多く起こった。
4歳の年には保元の乱、7歳の年には平治の乱が起こったのであった。

そして15歳の年には清盛が太政大臣となって、初めて武士が政権を握り、政情は安定したかと思えたが、それも暫くの間であった。

横暴を極める平家に対して追討令が出され、平家は長門・壇の浦にて滅亡した。
長明33歳の年であった。

40歳の1192年には、源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府を
開いたので一応の安定を見たのであった。

そしてこうした戦乱に加え、安元の大火・治承の大風、寿永の飢饉・元暦の大地震などの天変地異も相次ぎ、世の中がますます混乱した時代であったと云われている。

長明は7歳で従五位下に叙せられていることからして、貴族の階段を順調に
駆け上がるはずであった。
ところが20歳になる前に父親が亡くなってしまった。

さらに悪いことに、母が仕えていた二条天皇の中宮(高松女院)も没した。
このようなことから庇護者を失い、昇進のあてがなくなってしまったので
あった。

そうなれば仕方がない。長明は自らの才能でのしあがろうとした。
そして和歌を学び、勅撰集『千載(せんざい)和歌集』に1首が入選した。
後鳥羽上皇に認められ、和歌所寄人(よりうど)にも選ばれた。

にもかかわらず、長明は3年後に和歌所を辞して出家してしまう。
父も務めた河合神社の宮司職を一族の有力者に奪われたことに絶望したと
されている。

しかし、その不遇こそが、長明に不朽の名を与えることとなったのである。

宮中の席を辞した長明は出家し、洛北大原へ隠遁したのであった。
そして、大原を出発に居所を転々として、洛南日野に庵を落ち着かせたと
云われる。そこ日野で方丈記などを著したのであった。

余談であるが、この日野の土地は、長明がまだ若かりし頃、浄土真宗の開祖親鸞上人が生まれたところでもある。

隠遁した鴨長明の棲み家は分解組み立て式の移動できるものであった。

『・・・・
その家のありさま、世の常にも似ず。
広さはわづかに方丈(約3m四方)、高さは七尺が内なり。
所を思ひ定めざるがゆゑに、地を占めて作らず。
土居(つちゐ)を組み、うちおほひを葺きて、継ぎ目ごとに
掛け金を掛けたり。

もし心にかなはぬことあらば、やすくほかへ移さむがためなり。
その改め作ること、いくばくの煩ひかある。
積むところわづかに二両、車の力を報ふほかには、さらに他の用途いらず。』

と、方丈記には書かれている。
その場所嫌になれば直ぐに引っ越すことができる。いいのか悪いのか分からないが、それが長明の隠遁の生き方であったのである。
当時では、移動式は珍しかったのではと思われるが、どうであろうか?

長明のこの庵が790年ぶりに復元なされている。
復元されたものが京都下鴨神社の河合神社の境内に置かれていて、当時を偲ぶことができる。

最近、わが国では大地震や竜巻など、大きな天変地異が起こっている。
方丈記の時代の様子はどうであったのか? 見て見ることにする。

まず地震である。
『おびただしく大地震ふることはべりき。
そのさま、世の常ならず。
山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。
土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る。
なぎさ漕ぐ船は波に漂ひ、道行く馬は足の立ちどを惑はす。
都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、一つとして全からず。
あるいはくづれ、あるいは倒れぬ。
・・・・・・・・・・・
その余波、しばしは絶えず。
世の常驚くほどの地震、二、三十度ふらぬ日はなし。
十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、あるいは四、五度、
二、三度、もしは一日まぜ、二、三日に一度など、おほかたその余波、
三月ばかりやはべりけむ。
・・・・・・・・・・・
大地震ふりて、東大寺の仏の御首落ちなど、いみじきことどもはべり
けれど、なほこの度にはしかずとぞ。
すなはちは、人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りも薄らぐと
見えしかど、
月日重なり、年経にしのちは、言葉にかけて言ひ出づる人だになし。
・・・・・・・・・・・ 』

と大地震の様子、余震のこと・・。そして、その時は人は無常を感じ、欲望や邪念の心の濁りも無くなったと思われたが、喉元過ぎれば忘れてしまうと書かれている。

余談であるが、東日本大震災の発生直後、多くの人が『方丈記』の世界との類似を指摘したと云われる。
元暦地震の記述の中で長明は、地震の最後に次のように書いている。

『すべて世の中のありにくく、わが身と住みかとの、はかなく、
あだなるさま、またかくのごとし。』

地震に遭って、生命や住まいがいかに頼りないかよく分かったというのである。東日本大震災の被災地以外の人でも、共感できる思いではないだろうか?

次に、多分竜巻であろう、つむじ風である。
『・・・・・・・・・・・
こもれる家ども、大きなるも小さきも、一つとして破れざるはなし。
さながら平に倒れたるもあり、桁・柱ばかり残れるもあり。
門を吹きはなちて四、五町がほかに置き、また、垣を吹き払ひて
隣と一つになせり。

いはむや、家のうちの資材、数を尽くして空にあり、檜皮・葺板のたぐひ
冬の木の葉の風に乱るるがごとし。
塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず、おびたたしく鳴り
どよむほどに、もの言ふ声も聞こえず。

かの地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとぞ覚ゆる。
家の損亡せるのみにあらず、これを取り繕ふ間に、身をそこなひ、
かたはづける人、数も知らず。

この風、未(南南西の方角)の方に移りゆきて、多くの人の嘆きなせり。
・・・・・・・・・・・・」』

と、竜巻が起こって、街が壊滅的になるだけでなく、怪我人も多数出たと
されている。
先ごろ茨城県発生し、多数の被害を出した竜巻の様子に類似している。
先人の情報に学ぶべきところは多いのではあるまいかとも思われる。

方丈記では、このように長明自身が体験した自然現象にまつわる当時のあり様が記されていて、当時の庶民の生活を知ることができる貴重な歴史資料になるとも云われている。

その後、方丈記についで『無名抄』などを著し、1216年、62歳でその命を閉じたのであった。

鴨長明の残した方丈記は、兼好法師の徒然草、清少納言の枕草子と共に、
日本三大随筆と呼ばれている。

長明は自らの力でのし上がったのであった。

「草深き 方丈庵や 侘び住まい
鴨の流れに 世の無常見ゆ」
〔完〕