鞍馬山は源九郎判官義経が幼少期から元服までを過ごした所、一草一木に至るまで想い出深いものがあったろうと思われる。

時は平安時代末期、平家支配の世の中の真っ只中、
平清盛は平家の将来のことを考え、源氏の幼子達は、
「将来、親の仇として、ワシの命を狙うようになるに違いない」
と思い、乙若、今若、牛若の幼子達を殺そうとした。

しかし、幼子の母常盤御前の助命懇願に応じ、常盤御前が清盛に従うことを条件に、そして子供達は僧籍に入ることを条件に、殺しはしなかった。

乙若、今若は早速に出家した。
牛若は、まだ3才、母と一緒いたが、7才になって鞍馬寺の東光坊という僧に預けられた。
鞍馬では、遮那王(しゃなおう)と呼ばれた。

鞍馬山で義経は、熱心に仏教や儒教を学んだのであったが。
ある日東国から訪ねてきた僧により、父は源氏の大将であった義朝であること、義朝は清盛に殺されたこと、兄頼朝が伊豆に流されていることを聞かされ、ショックを受けると同時に、清盛に対する復讐の怨念が芽生えたのであった。

聞かされて復讐心に燃えてしまった義経は、夜な夜な寺を抜け出し、木々を相手に、時には物の怪相手に、飛んだり跳ねたりしながらの剣術の修行に励んだのであった。
鞍馬山の天狗に武術を学んだとの逸話もある。

あるとき、この夜間修行が、東光坊が知る所となって、
「僧籍に入れるか」
と悩んだが、武芸・学問の才能は惜しいということになり、
「夜行の修行は禁止だ!」
「相い分かった」
以降、遮那王は寺内にて本尊へ厚くお参りし、平家討伐の祈願に力を込めたのであった。

余談ではあるが、弁慶との出会いもあった。
遮那王は、最初の征夷大将軍坂上田村麻呂が十一面千手観音を祀った東山の清水寺へもよくお参りした。
清水寺で、弁慶が1000本目の刀取りの戦いを挑んだが、返り討ちに遭い、そのまま家来になったという。 そんな逸話もある。

その甲斐あってか、ある日、奥州の商人が遮那王の噂を聞きつけて、寺にやって来た。
その商人は商売柄奥州藤原氏とも親交が深く、藤原秀衡が鞍馬に預けられた義朝の子に会いたがっていること、戦があれば軍を率いて、鎌倉に味方することを聞いた。

奥州に行きたいと思った遮那王は、
「いつ行けばいいんだ?」と聞いた。
「明日にでも・・」

急遽、明日奥州に向けて出発することとなった。

部屋へ帰り、密かに荷物をまとめた遮那王、ここで過ごした10年間のことがしのばれ、涙が頬を伝うのであった。

奥州行きの途中で、遮那王は熱田神宮に立寄った。
義理の祖父が烏帽子親となり、元服の儀を執り行った。
ここで初めて、源九郎義経と名を改めたのである。

商人に身をやつした義経一行は無事奥州に着いた。
藤原秀衡とその一族から大歓迎を受けた。

それから暫くの間、武門の将になるべく、武術の修行に毎日充実した日を過ごしたのであった。
おそらく、義経の人生の中で、最も楽しかった日々であったに違いない。

一方、都では平家一族の横暴が目立つようになってきた。
後白河法皇や以仁王が、平家討伐の軍を起すよう、全国の武家に呼びかけた。
源氏一門の長、頼朝も関東にて軍を起した。
これを聞いた義経、早速、頼朝の元へ馳せ参じたのであった。

2才の時に別れてからの再会、涙流れて止まなかった。

この後、義経は頼朝軍の武将として、木曽義仲と戦い、平家一門と戦い、平家滅亡の壇ノ浦まで、華々しい戦を展開するのである。

この話は前々の章「宇治川の先陣」で触れている。

平家との戦いが終わった。
大将義経の働きで勝ったといっても間違いない。

しかし、その武功については、頼朝からは全く評価されなかった。
京都に留められ、
「鎌倉へ来ることまかりならん」 ということだった。
頼朝から何の恩賞も無いので、可愛そうに思ったのか、後白河法皇は義経を検非違使の判官に任じたが、これが義経には裏目に出た。

戦いで独断専行したとか、勝手に役職についたとか、頼朝は色んな理由を探し出し、義経を軍から外そうとしたした。亡き者にしようとした。
刺客を放ったり、軍まで差し向けたりした。

出る釘は打たれる。
この場合は打たれるというより、抜かれるといった方が正しい。

義経は妻静御前や家来とともに、吉野へ逃げたのであった。
家来と云っても武蔵坊弁慶、佐藤忠信ら数名である。

静御前は吉野までの山行に無理がたたり、おまけに義経の子を身ごもっているので、病に伏せてしまった。
京へ帰すことになり、山を下りたが、途中で頼朝の追っ手に捕まり、鎌倉へ送られた。

静は鎌倉では囚われの身、無事出産は果たしたが、頼朝はその子を海に放り込み殺してしまったと云う。
残酷なことをするものである。

悲嘆にくれた静は仏門に入った。
しかし程なく病に伏せ、その短い一生を閉じてしまった。
静、19歳であった。

吉野山に隠れていることが分かった義経一行を、頼朝は放っておく訳はない。
吉野を攻めがいつ始まるか、吉野の僧たちは戦々恐々とした。

「義経が攻められるのはいいが、寺を焼かれるのはたまらん」
「ワシらも義経を隠したかどで、襲われるぞ」
「困ったものだ」
と、悩んでいた。

吉野にも僧兵はいる。
覚範と云う勇猛な僧兵の長、
「簡単なことだ。先に義経をとらえて、鎌倉に差し出したらよかろう? それで、全て良しじゃ・・」

一方、義経館、
「兄の軍が来ないうちに、山を下りるぞ・・。」と義経。
「下の寺を見てきたが、僧兵たちが騒いでおる。
ここへやって来るぞ」と弁慶。

「妙案がござる 拙者が僧兵らを引き付けておく故、その間に・・」 と忠信。
これで決まった。

佐藤忠信、勇者である。
兄、継信は屋島の戦いで、義経の楯になりこと絶えた。

忠信は数名の兵(これだけしかいない)で、僧兵と戦った。
死闘の末、僧兵の長、覚範の首級を上げた。
首級を高く掲げてやった。
「覚範程のものがやられたのか。」
と、恐れおののいて、おじけづいた。
戦闘は終わった。

その間、義経も数名で無事山を下っていたのであった。

義経主従は、道々隠れながら京を目指した。
忠信もあとを追いかけたが、合流することはなかった。
忠信は、京の判官屋敷に潜んでいるところを見つかり自刃したという。
勇者また一人、消えて行った。 あわれである。

義経は奥州平泉に行き、秀衡を頼ることを決意した。
山伏の一行と見せかけ、長旅に出発した。

北陸石川、安宅(あたか)の関にやって来た義経一行、
ご存じ、歌舞伎一八番、勧進帳の名場面に遭遇する。

関所代官は富樫左衛門(とがしさえもん)という。
富樫は義経らが山伏に変装、という情報を聞いていたので疑った。

問いただすと、焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると云う。
「それなら、勧進帳を読んでみろ!」
弁慶は、たまたま持っていた巻物を懐から取り出し広げ、スラスラと読み上げたのであった。

「通れ!」
と云うことになったが、役人の一人が、義経らしきものがいると告げた。

とっさに弁慶は、持っていた杖で義経を何度も叩いたと云う。
その時の弁慶の心情はどんなだったろうか?

「分かった、分かった 通れ!」と富樫。

弁慶は富樫に目礼し、一行は足早に通り過ぎたという。

富樫は弁慶の悲痛な思いに共感して、騙された振りで関所を通した。
判官びいきの最初の人は富樫であった。

義経主従は奥州平泉まで、何とかたどり着いた。
山伏の装束はボロボロになっていたと云う。

藤原秀衡の一族は義経主従を大いに歓迎した。
義経も弁慶も他のものも、やっと安心して眠れる夜が続いた。

ところが一年ほどたって、秀衡が病のため、帰らぬ人になってしまったのである。
義経主従は泣いた。
親兄弟でもこんな別れがあるものだろうかと思うほどであった。

秀衡は鎌倉からの催促、
『義経を差し出せ!』だの、
『軍を差し向けるぞ!』だの、
様々な脅しにもひるむことなくをかばい続けてきたが、
それもかなわぬこととなった。

秀衡の息子泰衡も親の遺志を守って義経をかばい続けたのは良かったが、鎌倉から来る義経追討状が、ある時から院宣・勅命に変わった。
朝廷の意思として来るようになった。
『義経を差し出さなければ、藤原一族も滅ぼす』
とまで、書いてあった。

余談ではあるが、
天下統一のためには、やむを得ないと理解はするが、頼朝にはもっとやり方はあったのでは、と思う。
こんなことをやってるから、幕府は短命で、家来に付け入られ、同族の別の源氏に、幕府が滅ぼされてしまったのも、うなずける。

一か月ほど経ったある日、泰衡の軍500騎が義経館を取り囲んだ。
義経側は10騎ばかり、勇敢に戦ったが、時とともに1騎1騎と消えて行った。

最後に残ったのは、弁慶、北の方の護衛役兼房、喜三太でのみとなった。

その少し前、弁慶はここまでと悟り、義経に今生の別れに行った。
弁慶は、
「六道の道の巷に待てよ君 おくれ先だつならひありとも」と詠んだ。
義経の返歌、
「後の世もまた後の世も めぐり会へそむ紫の雲の上まで」
と慟哭したと云う。

弁慶の云う六道とは、義経と弁慶が最初に出会った清水寺の麓のことである。

いよいよ最後の場面になった。
弁慶は一人も通さじと、門前に長刀を構えて仁王立ちになった。
雨あられの矢を受けた。 それでもじっと立ち続けたと云う。
立ったまま息が絶えていた。
弁慶の立ち往生とはよく云ったものである。

弁慶が死守している間に、
義経、北の方、幼子は見事に自刃を果たしたのであった。
そして、介添え役兼房は、館に火をつけて回り、自らも自刃した。

見事な、哀れな最期であった。

後年、芭蕉が、奥州に旅をした時、この地に立ち寄った。
「夏草や つわものどもが 夢の跡」 と詠んだ。

しかし、義経や弁慶にはこの時には、もう夢はなかった筈である。
悔しさと、兄頼朝への恨み、世の中の習いへの絶望、そんなものがあったと思われる。

夢を見ていたとすれば、栄華ではなく安心して暮らせる、ささやかな夢
だったのではなかろうか?

しかし、義経と弁慶以下主従の堅い絆は、時が経った今も残っていると思わずにはいられない。

「秋の空 青より深い 子弟愛 六道のこと 何時しかまみえん」

〔義経と弁慶 完〕