「絶景ェ~かな!絶景ェ~かな!
春の眺めを値千金とは小さいたとえ、この五右衛門が目からは値万両、万々両。日もはや西に傾きて、誠に春の夕暮れの、桜の色もひとしお、ひとしお。ハテ、うららかな眺めじゃな~ア」
かの有名な、歌舞伎のセリフ。
石川五右衛門が南禅寺の三門にて、大見栄を切るところである。

南禅寺は、臨済宗南禅寺派大本山、京都五山の別格寺院である。
石川五右衛門と南禅寺は何も関係ないと思うが、そのスケールの大きさにて、とても似つかわしい両者ではある。

五右衛門が京都市中を荒らし回った大泥棒という仕立てで、歌舞伎
『楼門五三桐』が演じられた時、舞台として使われたのは、拍手ものである。

しかし、五右衛門が秀吉の命にて捕らえられ、釜茹での刑にされたときには、まだこの三門は無かった。
30年後の江戸時代に、藤堂高虎によって大坂の陣にで戦死した将士の菩提を弔うために建立されたという。

五右衛門は江戸歌舞伎から現在まで、ドラマの中で生きているキャラクター、架空の人物かと思われがちであるが、宣教師などの書にて実存には疑いがない。

五右衛門は丹後の守護大名一色氏の家老、石川左衛門尉秀門の次男として、居城伊久知城にて生まれた 名を五良右衛門と云った。
京都からは、酒天童子で有名な、大江山を越えた北の方である。
天橋立からは南の方で、丁度それらの中間のあたりである。

ところが、本能寺の変のその年の秋、秀吉の命を受けた細川幽斎の手によって、秀吉に味方しなかったと、いちゃもんを付けられ、当主一色義清もろとも父も謀殺され、伊久知城も焼かれてしまった。

次男の五右衛門は、秀吉や幽斉に大きな恨みを抱いたまま、
「今に見ておれ、秀吉・幽斉を必ず殺してやる!」
と言いながら、丹後を離れたのであった。
この時、五右衛門は17歳であった。

ただし、元々先見の明のある五右衛門、城がつぶされる前に、めぼしいものを既に持ち出していたので、当分の生活には困らなかった。

「秀吉を殺すには、武術よりも、忍びの術だな」
その年の瀬に都で出会った、旧主の遺臣から教えられた。

「伊賀の地に、臨寛という忍術を使う僧がいる。この者に、教えを乞うたら良かろう。一色の遺臣であると言えば、粗末にはせんじゃろう・・。 殿のご恩は決して忘れんお人じゃからのう・・・」

五右衛門は、丁寧に礼を言った。
「必ずや参ろう かたじけない」
以前に城から持ち出した茶道具や金目の物を処分して、伊賀に向けて出立した。

目指すは、正覚寺と云う寺、臨寛と云う僧侶である。
京都から伊賀までは、南近江、甲賀と、いくつかの山越えで到着した。

伊賀では、丁度大和からの国替えで筒井氏が入城しており、街中あわただしかったが、無事正覚寺に到着した。
所持していた金子の中から、多額の寄進をしたため、手厚く扱われたのであった。

その日から寺に居候し、寺務をこなすとともに、4年間に渡り、厳しい
忍者修行をしたという。
師はといえば、百地丹波と言う上忍である。

百地丹波は先年、信長軍の伊賀攻めに居城を破壊された。
信長への恨みは誰よりも大きかった。
その後、丹波は行方をくらましたことにはなってはいるが、密かに居宅を再建して、忍者衆の棟梁を続けている。
本能寺の時に、かの地に出没したかどうかは誰も知らない。

話は余談であるが・・・
本能寺の時、伊賀から京都へ多数の衆が動いた。 公然の秘密である。
また、多数の伊賀者がその時、家康の緊急帰国「伊賀越え」のガードをした。
これはよく知られてる。

伊賀の地は家康との繋がりが深くなっているため、おいそれと近づくものはもういない。

忍術修行と言うのは仏僧の修行とよく似ている。
仏僧は心・内面の修行に重点をおくが、忍者は外面、人や場所との関係に重点を置く。

忍者の仕事は、スパイ諜報活動第一である。
物や話を盗むこと、そのために、忍び込む、聞き耳を立てる、跡を残さないことの技術を体得することである。
もちろん武芸の習熟も必要、長期の隠匿生活も必要である。
但し、人を殺めたりすることは、単に身を守る手段であって、目的には
していない。

少し長くなってしまったが、五右衛門は5年間伊賀の地で修行をした。
忍び術については、免許皆伝の腕前までになった。
師匠の丹波からは、
「もう教えることは何も無い。お前がここに居た形跡も何も無いようになっている。早々に立ち去られよ」
五右衛門は丹波に厚く礼を云って、辞去しようとしたが、・・・

「待て! 1人では心許なかろう お前と同じように、秀吉に恨みを
持っている者がいる。 一緒に都に、行くが良かろう」
「有り難き幸せにござる 何から何までかたじけない」

丹波の元を去った 寺住みも今日で解消である。
臨寛僧正にも厚く礼を言った。

「心して行くが良い お前はまだまだ、ひよこじゃからな。寺はな、寺なりに強い縁故がある 上手く利用してたら良いぞ。しかしな、仮に捕われたりしても、何も出来んぞ・・。ここでのことは、秘密じゃからな・・・。お前も決して口を割らんようにな、これだけが頼みじゃ・・」

五右衛門は明日朝の出立に向けて準備に掛かった。

五右衛門は、都の郊外に戻った。

このとき24歳、働き盛りである。
一緒に3人の忍者を連れてきた。
1人は、35歳のベテラン、大人・相談役である。名を松としておく。
残りの2人は同世代 秀吉に親を殺された若者である。
名を樫、杉としておく。

京都では、2ヶ所の居場所を物色して決めた。
この時代、無人の留守寺は、いくらでもあった
僧の真似事修行もしていたので、上手く入り込めた。
五右衛門と樫は南禅寺のずっと北の辺りに、松と杉は山科にそれぞれ住んだ。
各々は寺の再建、本山からの派遣僧という触れ込みもしておいた。

暫くの間は、寺の業務に精を出した。
末寺中の末寺であるから誰も来ない。それでも体裁だけは整えた。

寺を動かすには、金が要る。生活するにも金が要る。
京には、金のあるところは沢山ある。
公家、武家、大商人など、頂くところは沢山ある。

ガードの甘そうなところで、金がありそうなところへ行っては頂いた。
思い出したようにしか頂かないので、町の噂にもならなかった。

盗まれたほうも気付いていない。
後で気付いても、それこそ後の祭りである。
噂を聞いた市民も、密かに喝采するだけであった。

金が貯まってくると、貧しそうな人たちに分け与えた。
義賊といわれる所以である。

そんなことをしながら、長い年月が過ぎてしまった。

仇とする秀吉は、戦争好きで、朝鮮半島へ攻めていったりしていて、居所が定まらず、まだ暫く様子見を決めていた。

五右衛門は秀吉を殺すための正確な情報が欲しかった。
秀吉と敵対する大物に接近し、それを得ようとした。  誰が良いか?
秀吉に実子が出来たということで、冷たくされている甥の秀次、聚楽第にいる。
豊臣政権のナンバー2、これ以上の者は無い超大物ではある。

こんな時に僧は便利である 過去は問われない。

秀次も風流好み、あるとき、茶会に潜り込むことができた。

茶会の後、秀次からの声があった。
「伊賀の久寛殿と伺っておる  何やら本山で修行中とか? 京の町は慣れられたかの? たまにはここに来て、世の中のことなど話してくれまいか?」
「殿さえ良ければ、いつなりとも・・ お話申そうぞ・・」

その後、ことある時も無い時も出かけて、親交を深めた。
同年代でもある  何故かうまが合った。
颯爽とした久寛の様子に、秀次は惚れ込んだようである。

秀吉は唐入りに忙しく、また実子が生まれるやら、病死するやらで、居所定まらず、内政は秀次の手ににて行われていた。
秀次は関白職まで譲られたのであったが、秀頼誕生により、うとまれること決定的になり、蟄居申しつけられた。

秀吉は後継が定まったということで、隠居所を伏見に造営した。
伏見城の前身である 秀頼の生まれた年である。
何をするにも先見・先取りの秀吉、動きは速い。

秀次から、秀吉の性向を全て引き出した五右衛門、そろそろ頂くものを
頂こうと考えていた。

伏見屋敷のことも、大方聞いていた。
後は、秀吉がいるかどうか? 天気はどうか? この2つである。
秀吉は派手好きだから、移動は全て分かる。闇夜を狙っていた。

チャンスは来た。

忍びこむには、何の苦労もなかった。
秀吉の寝床の上まで来た積りである。
天井板をずらして、下を見た。
「あっ~!?」

もう一枚天井がある。 そこへ降りた。
尋常の天井板ではない。 ずれない。
「バシャ」「バシャ」と音がした
「出合え~ェ!」「出合え~ェ!」の声が・・
天井に仕掛けられたネズミ取りにかかってしまった。
「迂闊だった~ァ」
と悔やんでも、何ともならない。

五右衛門は、京都所司代前田玄以の屋敷の牢に投獄された。
役所には秀次の所にいた役人もいて、秀次の配下の僧であることにされた。

叩く蹴るの厳しい取り調べが始まったが、口は割らない。
玄以は秀吉には、僧久寛、秀次の隠密とだけ報告した。

秀吉は、
「なに、秀次がワシを狙った!! 皆殺しじゃ!!」とわめいた。
「その僧、久寛、河原で釜茹でじゃ!」
「秀次の所は、皆で囲んでおけ!」

判決が下った。

判決文は、
『僧久寛こと、石川五右衛門、都を荒らしまわった大泥棒に付き、釜茹での刑、悪人の根を断つために、一族郎党も磔の刑』
『秀次、謀反につき、厳重蟄居』
裁判官も検事も同一人だから、証拠はいくらでもデッチ上げられる。

五右衛門は、本懐を遂げられず、捕まったのだからしようがないが・・、秀次も、秀吉の我が子可愛さのあまり、いずれはこのような運命になることは、火を見るより明らかであった。

この時以来、謂れのない殺生関白秀次、と云われる様になり、翌年系累全て、秀吉に惨殺されたのは、むごい話である。

五右衛門の釜茹での刑が実行された。

イエズス会宣教師ペドロ・モレホンは書いている。
「この事件は1594年の夏である。油で煮られたのは「Ixicava goyemon」
とその家族9~10人であった。
彼らは兵士のようななりをしていて、10人か20人の者が磔になった」
と・・

三条河原では、立て札が立てられていた。
『告 石川五右衛門、都の市中を騒がした大盗賊、釜茹での刑に処す
その悪しき系累を断たんがため、一族皆、磔の刑に処す
京都所司代 前田玄以』

後の歌舞伎では、秀吉の前に連れ出された五右衛門、
『秀吉、お前こそが天下を盗んだ大泥棒じゃ』と言ったそうであるが、
これが民衆に受けたのであろう。

この五右衛門に、親を殺され家を城を潰された若者の気概を見た。

「人々の  心分からぬ  為政には 一石投ず  浜の真砂や」

〔完〕