尊氏は京の入口、東寺まで進軍し、そこを本陣としていた。
光厳先帝を抱いているので、御所と云っても良い。
東寺に攻めて来た新田軍を追い返し、益々意気が上がっていた。
そして、後醍醐天皇を脅かした。

後醍醐天皇は、20万の軍に囲まれては、何ともならない。
叡山に退避したが、叡山も攻められた。
逃げまどう天皇・朝廷・・。
最後は大和の吉野まで逃げて、そこに都を定めたのであった。

一方、天皇がいなくなった京都では、尊氏の奏請により、光厳先帝の手で、持明院統の光明天皇を即位させた。
しかしそれで収まる筈はない。
現帝、後醍醐天皇を無視して、勝手に天皇を作ってしまったのである。
他に方法はなかったかとも思われるが・・・。
どちらにしても、ダブル朝廷の時代に突入したのであった。

南朝に味方するもの、北朝の尊氏に味方するもの、全国を2分する争いが、それぞれ官軍と称して激突して行くのであった。

南朝方の新田義貞は北陸にたて篭もる。
北畠顕家は陸奥から、京都を目指して、鎌倉は奪還したが、しかし、いずれも足利軍に破れてしまう。

当面の武将の敵を破ってしまった尊氏「ここらで、良かろう」と云うことで、光明天皇から、征夷大将軍の宣下を受けた。
足利幕府の開府である。

後醍醐天皇は頼りにして来た義貞、顕家が討たれてしまい、それに楠木正行もまだ若いので、意気消沈、病に伏せってしまった。
わが子を後村上天皇として即位させたところで、その翌年には病没してしまった。
左手に経文、右手に剣を握っていて、まだまだ未練たっぷりの様子であったと云う。

やがて楠木正行と和田和泉守が軍を率いて吉野へ馳せ参じて来た。
皇居を守護し、ひたすら先帝の遺志を実現せんとの彼らの意気込みを見て、朝廷は、
「吉野から退散せん」
との思いを捨てた。
かくして、吉野朝の人心も落ち着きを取り戻したのであった。

天皇の亡骸は吉野蔵王堂の近くに葬られた。
御陵は京の都を向いて、北向きであった。

足利尊氏は後醍醐天皇の菩提を弔うために寺院を建立した。
夢窓疎石を開祖とする京都嵐山の渡月橋の直ぐ北の天竜寺である。

なぜ尊氏が?と思われるであろうが、このころ京都では異変が続いた。
そして、幕府の財政も窮乏を極めた。
南からの祟りと云われていた。
そこで、後醍醐天皇の霊を鎮めると云うのが本当のところである。

話を主人公、楠木正行(まさつら)に戻そう。

湊川にて父正成の戦死の後、息子正行の人生は父の遺訓、
「天皇に仕え、最後まで御奉公するのじゃ」
に従うということのみに捧げられてきたと言っても決して過言ではない。

正行は湊川で討死した子孫の面倒を見ながら、一人前の武士になる日をじっと待ちながら、今日まで生きてきたのであった。

「今年はもう父上の13回忌・・・拙者も25歳、立ちあがる日が来た」
「皆のもの、戦うぞ!! 陛下をお守りするのじゃ・・。 それに、各々方の父君の恨みを晴らすのじゃ・・。」
「若、よくぞ申した。 亡きお館様の恨みもじゃぞ。」

正行軍の活躍が始まった。
軍団500余騎を率い、しばしば住吉大社や天王寺周辺に現われては、幕府の関係の家に火付けしたり、焼き払うといった風に、幕府への挑発を繰り返した。

報告を受けた将軍尊氏は、
「あの正成の遺児、正行がなあ・・・。」
「幕府わが方への挑発を繰り返しております。如何致しましょうや?」
「それほど大した勢力でもないと聞くが、放っておいたら、住民の間で、不安がつのるじゃろうて・・。 征伐するが良かろう。」

早速、細川顕氏(あきうじ)を大将とし、約3000余が河内国へ向かったその8月の日の正午、幕府軍は藤井寺に到着した。

「楠木の館まで、まだ7里もある。
楠木が急にこちらに向かってきたとしても、着くのは明日かあさって。」
「今日のところは、ゆっくり休んでても大丈夫。今のうちに鋭気を養おう。」

油断大敵である。
ある者は鎧を脱いで休息し、ある者は馬から鞍を下ろして休んでいたところに、いきなり誉田八幡宮の後方の山陰から700余騎ほどの軍団が現われた。全員、兜をかぶり、しずしずと馬を進めて接近してくる。

「あっ、あれは、き、菊水の旗!! 楠木軍だ・・。」

突然現われた正行軍に慌てふためいた。
正行軍は一気に襲い掛った。
全軍の先頭で正行は敵陣中に突入していく。

大将の細川顕氏はやっと鎧を肩にかけたが、上帯もまだ締めれてなく、太刀を佩く余裕もない。
何とかして大将を守ろうと、村田一族6人が鎧無しの腹当て、こて当て、すね当てのみの武装のまま、そこにいた馬にてんでに跨った。
火花を散らして戦った。
しかし、それに続く幕府軍は一人もいない。
大勢の中に取込められ、村田一族6人は全員一所にて討たれてしまった。

その間に、細川顕氏の武装もようやく整った。
彼は馬にまたがり、自分に従う100余騎を率いて体勢を立て直し、
必死の抗戦を行った。

「敵は小勢、こちらは大勢 ひるむな!! 退くな! 戦え、戦え!」
と号令したが、負けている戦いの輪の中に突っ込むものはなく、皆、逆に逃げ出したのであった。

楠木軍の怒涛の追撃に、大将細川顕氏が危うくなった。
大将を救うために反撃した佐々木氏頼の弟・佐々木氏泰は討死した。
唯一、赤松軍300が反撃し、何とか大将を逃がせた。

楠木軍は深追いするのは止めた。
かくして、正行は大勝利を収めたのであった。〔藤井寺の戦い〕

正行は再び首都圏荒らしを始めた。
幕府は次の大将を立て、楠木軍と戦いを始めることになる。

住吉大社と天王寺に軍を配置しようとして、難波津に向かった。
今度は軍を四手に分け、正行軍を包囲する作戦であった。
大将は山名時氏、住吉にいた。
楠木軍は1000人ほどで、四手に分ける人数もなく、集中して、大将山名軍5000に当たることにした。

数度の激突があった後、大将時氏は負傷した。
この首を頂戴するべく、正行の家来、和田賢秀、阿間(あまの)了願が向ったが、たちまち敵兵に取り囲まれてしまった。
正行は「あの2人を守れ!」と号令し、突っ込んだ。
こうなっては、山名軍は後退するしかない。

後退しながら、山名軍の一人が、
「帰りの橋が落とされたら、万事休すだ。 橋を守れ!!」
と言ったものだから、全員その橋、渡辺橋に殺到したと云う。

幕府軍で溢れ返る橋やその周辺、勝手に川の中に落ちて行くものの、後が絶えなかった。

またもや正行軍が勝利した。〔住吉の戦い〕

渡辺橋で落されて川水に流されていった幕府軍の武士500余人は、正行軍に助けられ、川から引き上げられた。
ひとまずは一命を取りとめたとはいうものの、冬の寒さは肉を破り、暁の氷は膚に結び、到底生きながらえれようとは思えなかった。

しかし、正行は情け深い人であった。
小袖を着替えさせて彼らの身を暖めてやり、薬を与えて傷の治療をさせた。
4、5日ほどこのようにして労ってやった後、馬に乗ってやってきた者には馬を与え、鎧を失った者には鎧を着せてやり、礼をつくして送り出したと云う。

助けられた兵士はの中には、その恩に何としてでも報いていこうと決意し、後日、楠木陣営に加わった者も多数いた。

再び破れた幕府軍、最強の高師直(こうのもろなお)と高師泰(もろやす)兄弟を大将とし、四国、中国、東山、東海20余か国の軍勢を河内へ派遣することになった。

軍団編成決定の後、中1日をおかず、まず高師泰が自らの手勢3000余騎を率いて京都を出発、12月14日の早朝に淀に着いた。
一方、12月25日には高師直が手勢7000余を率いて八幡に到着した。

「幕府の大軍が淀および八幡に到着す」との報を聞き、
正行と弟・正時は一族を引き連れて12月27日、吉野の皇居に参内した。

正行は四条隆資の介添えを得て、御簾の向こうの後村上天皇に奏上した。

「わが父は先帝陛下の命を奉じたてまつり、かねてより思い定めた覚悟のごとく、摂津国湊川において、みごと討死つかまつりましてございまする。
・・・・・
時は過ぎ、今や、正行、正時、すでに壮年に達してございまする。
つきましては、この度、なんとしてでも、我と我が手を砕いて朝敵と合戦つかまつりたく存じまする。
さもなくば、亡父の残した遺言に背く結果となりましょう。
正成の遺児は親には似ても似つかん、何の武略もない男であるとの、人の謗りをも受ける事になってしまいまする。

今度の戦、高師直、師泰を攻めに攻めてお見せしましょうぞ!
あの二人の首をこの手にかけて取るか、はたまた、正行と正時の首を彼らに取られてしまうか、結果は二つに一つ、ただただ戦場において雌雄を決するのみ!

今生において、いま一度だけ陛下の龍顔(りゅうがん)を拝し奉らんがため、楠正行、本日御所に参上つかまつりましてございまする。」

聞きながら後村上天皇は感動のあまり、直衣の袖を涙にぬらされた。
「御簾を上げい!  正行、近う・・。」
「ハハーッ!」
「こないだの二度の合戦、見事であったぞ!
大いに勝利を収めて敵軍の士気を見事うち砕いたな!」
「ハハーッ!」

「こ度の戦は、厳しいものがあろうが、ここは進むべき時と判断したら、機を逸することなく進むがよかろう。 退くべき時には迷わず退け、後の日のお前の使命を全うするためにな・・。 朕にとって、お前は手足のような存在・・・。 良いか正行、命を大事にな! 慎んで、慎んで命を全うするのだぞ!! 良いか、正行!」(涙)
「有難き御言葉・・・。」(涙)

楠木正行は頭を地につけたまま、沈黙を守るだけであった。
そして、正行とその一族は覚悟定めて御所を退出したのであった。

その後、正行、正時、和田賢秀達、今度の戦に一歩も退かず、一所にて共に討死にしようと誓い合った人々143人は、後醍醐先帝の御陵に参拝した。

さらに、一行は如意輪堂の壁板に各々の名字を過去帳のように書き連ね、その奥に一首の歌を書き留めた。

『返らじと 兼ねて思えば 梓弓
亡き数にいる 名をぞとどむる』

そして、一行は各々髪を切って仏殿に投げ入れた。
その日、彼らは吉野を発ち、まっすぐに戦場へ向かったのであった。

6万とも8万とも云われる烏合の衆の幕府軍は、高師直の本軍は四條畷に、高師泰の別動隊は堺に布陣した。
攻め込む正行軍はわずか3千であるが、武勇の兵ばかりで、戦いにおいては、それほどの遜色はない。

死ぬ覚悟の正行軍、怖いものなしで、真直ぐに大将の師直を目指して進んだ。

途中で何度も何度も横槍が入るが、都度蹴散らし、戦意喪失させて来た。
場所は飯盛山の麓、四條畷の野原である。

戦いは早朝から始まり、既に夕方になっていた。
正行軍全軍と云っても、もう50人程度しかない。
馬も失い、全員徒歩である。
しかし、師直の本陣まで、半町のところまで肉薄していた。

そこに現われた九州の須々木(すずき)四郎と云う者、強弓の使い手で、速射の名人である。 三人張りの弓に13束2伏の矢をつがえ、100歩先に立てた柳の葉めがけて射れば百発百中と云う。

正行軍は、朝から鎧を脱いで冷やす暇も無く、ずっと着っぱなし、体温で暖められた鎧には多くの隙間が生じてしまっていた。
須々木四郎が放つ矢はことごとく、その間隙を貫通し、彼らの身体深く突き刺さって行ったのであった。

最初に正時が眉間と喉を射られた。
もはやその矢を抜く気力さえも残ってはいなかった。

そして正行が左右の膝、右の頬、左の目尻を深く射られた。
霜に伏した冬野の草木のように、矢は彼の身体に折れかかっているが、ついに正行も動けなくなってしまったのであった。

もはやここまでと見た正行、
「もはやこれまで・・、皆の者よくやってくれた・・。 礼を申すぞ・・。」

正行と正時は互いに刺し違えて北枕に伏した。
他の者もそれぞれに折り重なって倒れた。

知らない間に和田賢秀(けんしゅう)は一人になっていた。
何としてでも、師直と刺し違えてと思っていた。
しかし、湯浅本宮太郎左衛門という河内の土着の武士に背後を突かれた。
首を掻き切られる時、カッと目を見開き睨みつけたと云う。
その睨みが湯浅を精神錯乱状態にし、
7日後に悶えながら死に至らしめたと云う。

その後、幕府軍は南河内の楠木屋敷に火を掛けた。
そして、吉野の御所へも火を掛けた。
しかし吉野は天皇や朝廷一行が、更に奥の天川村に移動した後の抜け殻だったと云う。

「今日の日の 戦い終わり 夕間暮れ 思い出づるは 青葉の別れ」

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