新田義貞の鎌倉倒幕に上手く便乗して京都にやってきたが、ていよく後醍醐天皇に追い出されてしまった足利尊氏(高氏)、九州にて再起を期し、大軍を擁して瀬戸の海路を通って、兵庫湊川まで上って来て、新田義貞、楠木正成の軍と激しい戦闘の末、楠木軍を撃破、敵の総崩れに乗じ無事上陸、京へ向かった。
時は1336年、建武の新政の直後である。
尊氏には考え抜いた末の用意万端の備えがあった。
この時代の武家は兼業農家である。
戦の結果で、土地を奪われることを不可とし、合戦には、勝ちそうな方に味方するのが習いであった。
義によってお見方する時代は後200年も以後の話し。
戦いは勢いのある方が勝った。
勢いのある方に皆がついて行くからである。
勝負は互角と判断した場合は、一族を両軍に分けて、その後の流れで、強い方に合流するということも常であった。
しかし、京の都では、もう一つ条件が加わり、それだけではなかった。
天皇のために戦うのが官軍、反するのは賊軍という。
区別がはっきりしており、天皇方につくのが良しとされた。
さて、話を尊氏に戻そう。
賊軍として九州に下野した尊氏、官軍への秘策を用意していた。
当時、天皇家では、即位をめぐって、後醍醐の大覚寺統と寺明院統との、激しい確執があった。
「これに乗らない手はない」と・・。
九州に、向かう前、既に、光厳上皇の詔を頂いていた。
その弟を、光明天皇として即位させる密約であった。
「これで、完璧だ。条件は全て揃った・・。
ただ一つ、義貞だけが、邪魔になる。
あいつを、亡きものにせんと・・・。 」
尊氏と義貞、同じ清和源氏の出で、八幡太郎義家の子、義国の子孫、おまけに居宅も栃木の足利郡と群馬の新田郡、遠いような感じを受けるが、現在は電車で2~3駅、隣町である。
もちろん幼少のころからの大ライバルである。
ただ足利は渡良瀬川流域の肥沃な農地、新田は赤土で、あまり農耕には適さない。
土地が2人の性格を、戦略に長けた尊氏、武闘に長けた義貞と、彼らを作り上げたのであった。
さて尊氏、官軍となり援軍を集め京都まで来たが、九州からの長旅、
取り巻きも兵も疲れ切っていた。
尊氏軍、都の入口、東寺に本陣を定め、20万の大軍を休めようと配置を終えたところであった。
尊氏と京で最後の決戦と決めていた義貞、これは前からの官軍2万の兵で、東寺に向けて北から二隊、東から一隊、途中小競り合いをしながら東寺門前まで軍を進めた。
尊氏の本陣は東寺の本堂と踏んでいた義貞、池庭を挟んで最寄りの東門へ陣取った。
「やい高(尊)氏!! 聞こえているか?
今日が貴様との最後の勝負と決めてやって来た。
出てこい高氏!
一騎打ちを所望じゃ!!」
と、ここぞとばかりのばかでかい声が寺中に響きわたった。
返事はない。
一呼吸置いて、数十本の矢が本堂向けてピュンピュンと・・・。
季節は6月末、暑い京都、本堂の扉は開け放なたれていた。
矢の2本が本堂内へ、一本は柱に深く突き刺さった。
尊氏はその矢の下で、重鎮と軍議中であった。
スクッと立った尊氏、
「義貞め! 来たか!! 馬引け!」
もう廊下まで駆け出していた。
尊氏の袖を捉まえた家臣がいた。 上杉重能である。
「尊氏殿、何を血迷うておられる・・
義貞ごときと差し違えて、 何とするものか?
御身は、天下を控えた大事な身、馬鹿なことは、許しませんぞ!!」
と、必死に食い下がる上杉・・・・。
「義貞を打ち取る絶好の機会じゃ! 行くぞ!
邪魔をするな!」
もう東門を挟む所まで来ていた。
「門を開けぇい!!」
閂につかまって離さぬ上杉。
「この上杉めを斬ってから行きなされ・・。
どうぞ斬って行きなされ・・・。 」
尊氏は「軍議、再開!」と小声で言ったのであった。
この時この門が開いていたら、日本の歴史は大きく変わっていたに違いない。
東寺では、この時以来、この門は開けていない。
不開門(あかずのもん)未だに開いていない。
この後、尊氏は光明天皇の詔で征夷大将軍に任じられた。
足利幕府の発足である。
と同時に南北に分かれた天皇家の時代の発足でもあった。
義貞軍は元気を取り戻した尊氏軍に追撃され、近江坂本まで敗走した。
「悠久の 歴史を眺む 東寺塔 よしなしごとの 思いや如何に」
この後は、更に次の章に続く・・・。