京都の東山の麓の十条から、最近できた高速道路のトンネルを東に山科に抜けた交差点の辺りに、手前から大石神社、岩屋寺、山科神社と並んでいる。
云わずと知れた、「忠臣蔵」大石内蔵助良雄の隠棲したところである。

大石神社が居宅跡で、京都府知事を会長とする大石神社建設会などが、広く基金を募り、昭和10年に設立したもので、神社の歴史は新しい。

刃傷松の廊下事件にて切腹させられた赤穂浅野藩主の遺臣達が、赤穂城をすんなり明け渡し、浅野家の家来はそれぞれのところに住んだ。

内蔵助は、親戚の筋から、公家摂関近衛家のこの山科の領地に目を付け、借り受けて、住むことになった。
なぜ、山科なのか?
その理由はひとえに人脈の確保である。
内蔵助は関白・近衛基熈とその側近に接触し、幕府や吉良家などの江戸での情報人脈を密かに築いていったのであった。

現に、12月14日の討ち入り決行の日となった吉良邸の茶会の情報は、吉良邸に出入りの茶人・山田宗偏の弟子からもたらされたものである。

また、その弟子と京都伏見稲荷神社の神職とは知り合いで、その神職の国学の弟子に吉良家の家老がいたので、吉良の動向が手に入った。

内蔵助は用意周到に情報を収集して討入りを決行したのであった。

もちろん神頼みもある。
主君浅野内匠頭(たくみのかみ)の恨みを晴らし、本懐を遂げるべく、来る日も来る日も、日々欠かさず、この山科神社に祈願した。

神社の神宮寺である岩屋寺の境内にある弁財天にも熱心に祈願した。現在この寺には、弁財天のほか、居宅の廃材で建てた茶室、さらに、内蔵助の遺髪塚も祀られている。

さらに、人目・世間の目のごまかしもある。
内蔵助は当初、浅野家復興を目指し、内匠頭の弟浅野大学を浅野家の跡取りにすべく、あの手この手で幕府に働きかけた それしか興味ないようであった。
しかし、それもかなわぬとなったとき、討ち入りの方針を明確にした。
そのときから、カモフラージュのために放蕩を始めたのである。
場所は、山を越えた伏見撞木町の遊郭、なぜ伏見かと云うと、吉良の遠縁にあたる。
伏見奉行の目をくらますためであったと云う。

忠臣蔵、歴史の事柄では、元禄赤穂事件と称される。
この忠臣蔵のストーリーは良く知られているので、あえて今回は触れないが、一言で云うと、赤穂城主浅野内匠頭の遺臣達47名が、藩主の無念を晴らすべく、吉良邸に討入り、見事、本懐を遂げる話である。

この討ち入りの後、すぐに曽我兄弟の仇打ち話しに摸して、浄瑠璃が書かれたが、3日で上演禁止となったという。

それではと云うことで、世間も落ち着いた頃、近松門左衛門らが人形浄瑠璃を書いた。
『碁盤太平記』というタイトルで、大坂の竹本座で上演された。

余談であるが、近松はこの時、同じ頃に起こった曾根崎心中事件のドラマ化に忙しかったのであって、そこまで手が廻らなかったというのが本音である。

討ち入りは心中ブームの続きとして、受け入れられ、これが契機となり、多くの歌舞伎や浄瑠璃が上演された。

その後、竹田出雲らが書いた『仮名手本忠臣蔵』に集約され、現在にも受け継がれている。
このとき初めて『忠臣蔵』と名づけられた 今や映画やテレビでも、年末の第九と同じレベルで上演されている。
正に、日本の文化となってしまったのである。

頭の部分の「仮名手本」とは何か、いろは47文字のことを云う。
いろはを7文字づつに区切ると、このようになる。

いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす

右端の文字を連ねると、「とかなくてしす」、すなわち「咎(とが)なくて、死す」と云うことを表しているのだそうである。

この忠臣蔵と、時の幕府(将軍は綱吉)とのかかわりはどうであったのか。
少し、考えてみたい。
何を考えるかと云うと、もちろん徳川幕府の功罪である。

先ずは、罪である。

このころ徳川幕府は、300名もの大名を抱えていた。
しかし、大名同士では、関ヶ原の戦いや大坂の陣のしこりがまだ残っており、仲違いし、口もきかなかったのも多かった。

大名同士の融和策を考えていた幕府は、ことあるごとに仲違いの大名を同役に付けて、仲良くさせ、改めさせようと云う施策を取っていた。

この時は、仲の悪い仙台伊達家と広島浅野家のそれぞれの支藩の大名を二人を勅使饗応役に任じ、そして高家吉良上野介をその指南役に付けたのである。

伊達と浅野は、その年の正月から、既に2ヶ月以上も前から、その準備に
江戸城で動いていたが、互いに口もきかなかったそうである。
更に悪いことに、吉良は2週間前になって初めて江戸城へ遅れて参じたのであった。

伊達も浅野も、すでに勅使応待の経験はあった。
既に出来上がっているところへ吉良が来て、役目上あれこれ修正を指図する。
口もきかないで、お互いに黙々と仕事をして、出来上がっていたのに、口うるさく云う輩が加わった。

伊達は我慢強かったが、浅野は吉良の勝手な振る舞いに、頭に来ていた。
もう少し云うと、浅野は山鹿素行の教えによる勤皇派、足利家の名門で佐幕派の吉良家とは、もともと相容れなかったのではある。
「いいかげんにせよ!!
こんなもん、やってられるか!!」
の心境であった。
この一発触発を、知ってか知らぬか、吉良の遅参を叱責せずに、知らん顔で、幕府は放っておいていた。
これが、幕府の罪である。

次は、幕府の功である。

幕府の功績の第一は、吉良邸を場所替えさせたことである。

江戸では、赤穂浪士が吉良邸に討ち入るという噂が絶えなくなっていた。
幕府も浪士の動きを警戒して監視していたのであるが、そんな中で幕府は吉良邸を街中の呉服橋から、警備の届きにくい郊外の、本所松坂町(現墨田区両国)の松平信望邸へと鞍替え命令を出した。
吉良はそれに従った。
しかし吉良の妻富子は感じることが有って、実家上杉家にこの機会に戻ったのである。

またその直ぐ後に、庄田下総守、大友近江守、東条冬重の吉良と関係深い三名を同時に呼び出して、勤務態度が悪いなどと咎めて役職を取り上げた。

さらに幕府は、隣家の旗本土屋主税にも、他家のことには手出し無用という通達を出した。

上杉家当主、上杉綱憲は吉良の実子であるが、討ち入り直後に援軍を出そうとしたが、母親の富子に、
「お止めなさい! 上杉家の為じゃ!」
と一喝され、動かなかった、ということである。

これらを見ると、討ち入りは幕府が手を貸したとも見ることができる。
当時の世論に幕府が配慮したのであろうか?

最後に、幕府の漁夫の利である。

47士(本当は1名離脱で46士)の処分について、将軍綱吉は徐々に助命方向に傾いていた。
形として、皇族がたからの恩赦という形が望ましいと考え、上野寛永寺に住まう公弁法親王に拝謁し、依頼したのであった。

しかし公弁法親王は将軍綱吉に、
「亡君の意思を継いで、仇を討とうというのは比類なき忠義である。
仮に、もしこの者どもを助命して、晩年に堕落する者がでたらどうであろうか?
おそらく今回の義挙にまで傷が入ることになるであろう。
だが、今、死を与えれば、後世までこの話は語り継がれていくことになるであろう。
時には死を与えることも情けとなる。」
と言った。名文句である。

なるほどと頷いた将軍綱吉は赤穂義士へ切腹を命じることを決意したのであった。
この決断が、忠義の士を作り出したことになり、江戸幕府は長く続くことになる。

その後、赤穂、吉良は、どうなって行ったのか?

浅野内匠頭の弟大学は、2000石の徳川旗本へと帰参した。
家名は見事に残った。

47士の子供達は、流罪を申し付けられたが、将軍交代の時に、赦免となった。
これには、内匠頭の妻、瑤泉院の絶大なる働きかけがあったという。

吉良家はお家断絶となり、跡取の孫、吉良義周(よしちか)は信州諏訪預かりとなったが、程なくその地で亡くなったと云う。

全ての結果は多くの大名や武家、市井の民にまで喝采もって受け入れられた。
それが、長く語り継がれている理由であろう。

また、外国にも、広く紹介されたという。
47義士は、ヨーロッパでは、騎士道の精神に通じた人たち、中国では、儒教の教えにかなった忠節の士と捉えられた。

さらに、日露戦争の停戦会議の仲介役となった米大統領ルーズベルトが、
忠臣蔵の書を愛読していたそうで、調停役を引き受けた。
その理由が、日本人の忠義心に感心したからである、との逸話もある。

「冬の日の  つとめてに鳴る  陣太鼓  ひと音ごとに  あるじ偲ばる」

〔忠臣蔵 完〕