領主として光秀ほど領民から慕われた武将はいなかったであろう。

明智光秀は美濃の国、現在の可児市明智にて明智光綱の息子として、生を受けたと云われる。
明智家は土岐氏の支流であったが、土岐氏が国盗りの斎藤道三に滅ぼされた後は国主になった道三に仕えた。

その道三がその子義龍との争いに敗れた時に、明智の城も攻撃され、一族の多くは討死したが、光秀は明智家再興を目指して逃れ、母方の若狭武田氏を頼ったのであった。

光秀はもともと鉄砲射撃は上手かったが、若狭にてさらに磨きを掛けた結果、30cm四方の的を45mの距離から確実に命中させたと云う。
これは当時では誰もが成しえない驚異的な腕前であったと云われている。

しかし、鉄砲で飯が食える時代では無い。
居候は光秀には耐えきれない。
生活苦を背負いながら、近隣諸国を訪ね、仕官の道を探した。

ある時、加賀の国にて一向一揆と闘う朝倉景行の軍と遭遇した。
景行は朝倉一門、越前北の庄の城主である。
朝倉家の当主は義景。
義景の母親は光秀と同じ若狭武田氏の出であり、光秀と朝倉家は近しい関係があると云うことも景行は知っていた。

「光秀殿か? ご苦労されているそうじゃのう…」
「景行殿か? 一向衆との戦、難渋されていると聞いているが…。ここで出会ったのも何かの縁、お役に立ち申そうぞ…」
「それは忝い。貴殿の鉄砲の技量は聞いてはおるが、それはそれとして、今は敵の出方である。光秀殿はどう考えるかのう?」

「一向衆の輩は…、彼奴らはまともに武士と戦ったのでは勝てる筈がないと思っている。彼らが勝てるとすれば夜討ち朝駆けでござろうのう…。その備えをしておくが良かろうと存ずるが…」
「なるほどな、警戒するに越したことはないな…。早速…」

早速、景行は軍議を開いた。
「夜討ちに備えよ。軍師殿の策である」
との指示を出した。

光秀は臨時軍師にさせられていた。
皆は飛び入り軍師の意見など聞こうともしなかったが、景行は念のためと思いその夜、夜討ちの備えを試してみた。

これが効を奏したのであった。
一揆軍はその夜、襲撃してきた。
備えていた朝倉軍、難なく待ってましたとばかりに蹴散らした。
その勢いをかって、あくる日一揆の本拠を攻め、完膚なきまでに粉砕、勝利を収めたのであった。

それから数日後、景行は光秀の慧眼と才能に感服して、当主義景に仕官を進言した。
これで光秀の流浪も終了することになったのである。

第13代室町将軍に足利義輝がいた。
1565年、家来に暗殺されたかどうかわからないが変死をした。
その弟義昭は危険を感じたのであろう、妹婿である若狭守護の武田氏を頼った。
そして武田氏の姻戚関係から、越前朝倉義景を頼ったのであった。

義昭の側近に細川忠興という男がいた。
光秀は若狭武田氏の係累であったので、義昭の接待役を命じられていた。
忠興と光秀は馬が合ったのであろう、たちまち旧知であるかのように打ち解けた。

義昭の意図は、将軍職になることであった。
朝倉に上洛を願うが、動かないのにしびれを切らしていた。

「忠興、策は無いものか?」
「上様、今、美濃に信長と言う男が力ありと聞いておりまするが…」
「信長か…」
「桶狭間で義元を破り、まむしの美濃も奪取し、今にも京に上りそうな勢いと聞いておりまするが…」
「そうか、先に京に上られるとややこしくなるのう…」
「ちょうど上手い具合に朝倉の家臣に光秀と言う男がござる。若狭武田の係累とか…。 そして、信長の正室のいとことか…」
「それは好都合であるな。美濃の信長とやらに通じて見るか?」

信長の妻・濃はまむしの道三の正室・小見の方の娘である。
そして小見の方は光秀の祖父・明智光継の娘であると云われている。
ややこしいが、濃と光秀はいとこと云うことであった。
義昭の側近となって光秀は、濃を通じて信長に接近したのであった。

一方、信長は信長で上洛の大義名分が欲しかった。
渡りに舟、上手い具合に将軍候補義昭が転がり込んできた。

大歓迎された義昭…。
その仲介者としての光秀…。
光秀は信長の家臣ともなり、義昭・信長の上洛に尽力することになったのである。

その翌年、義昭を奉じて上洛を果たした信長、義昭を15代将軍に就け、そしてその後見人として都に力を示したのであった。

無骨者しかいない織田軍団の中にあって、和歌や茶の湯をたしなむ唯一の教養人でもあった光秀は、朝廷・公家との仲立ち役として卆なく振る舞い、信長を都に難なく受け入れられる様にしたのであった。
その功績は大きいと思われる。

光秀は信長の家臣となってまだ2年程度しか経っていないが、古参の猛者家臣と同列あるいはそれ以上に扱われ、重用されたことは信長の評価がいかに高かったかを物語っている。

信長にとっては、義昭を傀儡政権にした積りであった。
『天下の事は、信長に任せてくれたし…。書状を発する際には、信長の目通しが必定…』
と云い渡していた。

しかし、将軍として自立したい義昭は信長への恩も忘れて、好き勝手な振る舞い続けていた。
中でも朝倉を始め各地の諸侯そして宗教勢力に、『上洛して、信長を撃て!!』と書状を送り届け、信長を排斥しようとしていたのであった。

このような状況下での光秀の役目は義昭の勝手を止めさせることになる。
光秀には苦悩の日々が続いたと云う。

やがて、義昭の書状への反応が現れる。
光秀が以前に仕えた越前朝倉、北近江の浅井、甲斐の武田信玄などなど…。
宗教では本願寺、比叡山も反信長色を露わにした。

将軍を連れて都までやってきた信長であったが、いかんせん再び戦に明け暮れる日々に戻ることを余儀なくされたのであった。

朝倉・浅井連合軍に信長・徳川連合軍で迎え撃った姉川の戦いは、光秀にとっては嫌な戦いであった。
教養人でもある光秀にとって、主人と戦うことなどは最も恥ずべきことであるとの哲学があったからである。
幸いに朝倉には徳川軍が当たったため、光秀は事なきを得て救われたと云う。

その後も信長軍は戦いの連続であった。

光秀は無用な戦いを避けて、恭順させ味方につけるが得策との考えで一貫していて、都度信長を諫めたが、聞き入れられなかったためやむを得ず戦った。

比叡山での戦いでは、光秀の功が大きかったようである。
今までの分も含めて、信長から西近江5万石を賜った。
坂本城を建設して、信長家中では初めての城持ちとなった。

将軍義昭は、懲りない。
またまた、諸侯に信長を撃てとの書状をしたためた。
武田信玄が上洛するとの報が届いた。
有頂点となった義昭は、信長に戦線布告をしたと云う。

しかし、信玄が上洛途上で病に倒れ、この信長包囲作戦も失敗した。
信長は義昭を亡きものにしようと襲った。
赤子の手を捻るようなものである。
光秀が「将軍の命だけは…」と信長に身体を張って懇願したこともあって、義昭は追放となり、毛利を頼ったのであった。
これにより、室町幕府は崩壊したのであった。

光秀は複雑であった。
「あれほど身を削って再興した室町幕府であるのに…。信長の手で滅ぼされるとは…。世の流れとはこういうものか…」
自らの先見の無さ、不甲斐無さに悲観するのであった。

毛利の庇護下にある義昭ではあるが、まだ懲りない。
またまた打倒信長の書状を諸侯に書いた。
今度は上杉謙信が動くと言う。
しかしながら謙信も道半ばに病に倒れ、この包囲網も不発に終わったのであった。

そのあと光秀は丹波攻めを仰せつかっていた。
苦労はあったが、何とか丹波を平定し、亀山城を建設した。
光秀は都合36万石を抱える大大名とになったのである。
それも京への入口への2か所、大津と亀岡にである。
そして、畿内にいる丹後の細川忠興、大和の筒井順慶をも傘下に置く、総合指揮権が与えられたのであった。
名実ともに信長軍の朝廷・禁裏の外交役、畿内の守護役になったのであった。

領主としての光秀はどうだったのであろうか?
この時代には珍しく領民思いの善政を布いたと云う。
その証拠に、坂本、福知山、亀岡など光秀が統治したところでは、今も光秀を偲んだ催しが行われていると云う。

光秀にも腹心の部下がいる。
それは明智家家老、斎藤利三である。
もとは稲葉一鉄の家臣であったが、一鉄と喧嘩別れし、光秀との縁戚関係から光秀に仕えるようになったといわれている。
光秀に仕えた時、稲葉一鉄は織田信長に利三の帰参を求め、信長も光秀に「返せ」と光秀に迫ったが、
「利三ほどの良臣がいるからこそ、上様の下でお勤めし、功が挙げられまする。いくら上様から言われましても、お断り申し上げる。この者は当家に無くてはならないものでござる」
と即座に断った。

信長は光秀の髪を掴んで、引き回した。
「云うことが聞けんのか…。これでもかこれでもかと…」
そして信長は刀に手を掛けた。
「聞けませぬ…。聞けませぬ…」

周りの者が信長から刀を奪い取り、事なきを得たのであった。
これを聞いて利三は地の果てまで光秀について行く決心を固めたのであった。

余談であるが、この利三の娘にお福、のちの春日局がいる。
この春日局、こののち長い年月を経て、光秀と再会することになるのだが…。

謙信が亡くなり、信長包囲網も瓦解したことで、信長の大敵はいなくなった。
このころから信長は、
「朝廷の力も必要無し、神も仏も要らず」
と、自らがすべての支配者となるべく、官位従右大臣も放棄し神格化し始めた。

信長が家臣佐久間親子に詰問した書状がある。
その中にこう云う一文がある。
『お前たちにひきかえ、丹波での光秀の働きは目覚ましく天下に面目を施し、秀吉の武功も比類なし。池田恒興は少禄にも関わらず摂津を迅速に支配し天下の覚えを得た。柴田勝家も右に同じ。・・・・』

1581年、京都御所で軍事パレード「馬揃え」が開催された。
覇王信長の威力を皇族・公家に見せつけたのである。
その実行部隊の長として光秀がいた。

光秀はようようここまで来たとして、感慨深い思いをしていたのであった。

しかし、無視された朝廷側これを良しとは一切しない。
信長を亡きものすべく、この日を境に動いて行くのであった。

そして、信長の古くからの重臣達も光秀の頭越しの栄達に嫉妬し、何時かは亡き者にと、決意したのであった。

信長と光秀、静かに危機が訪れて来ていた。

〔完〕