歴史は勝者の歴史として語られてきたことは否めない。
敗者は奸族、反逆者…、といつの世も犯罪者扱いにされ、世の人から疎まれるように仕向けられ、真実が覆い隠されて来た。

なかでも石田三成はその代表格であろう…。
傲慢・横柄・冷血・小賢しい・武勇無し・虎の威をかる狐…など、悪者のデパートのように言われている。

人間にはそれぞれ2面性があるので、そういう側面もあったろうとは思われるが、それだけではあのような大仕事はできない。
いったい、真実はどうだったんだろうか?

三成は恐ろしく頭のいい男であった。
当時はピカイチであったろうと思われる。
さらに、先を見通す能力にも鋭いものがあった。
これらの優秀な能力を、仕えた豊臣家のためだけに発揮した。
決して策は弄さない。
思いをストレートに発揮した。
ただ歯に衣を着せないその有り様が内外に敵を作ったとも云われる。
良くも悪くもあった。

豊臣家当主秀吉も非凡な能力を持っている。
頭が良い上に、先を見通す能力も持っている。
これも当時のピカイチであろう。
しかし、先を見て策を弄する方に力を入れた。
いわゆる政治家である。
三成との違いであろう。

三成は先を見て、決まり・しきたり・法則通りに豊家を動かした。
いわゆる官僚である。

佐吉・三成は滋賀県長浜の石田郷の豪族の家に生まれた。
利発な子供であったと云う。

当時、秀吉がまだ長浜の城主であったころ、たまたま鷹狩りか何かで通りかかった秀吉の目にとまり、父・兄は仕官、佐吉は小姓として召し抱えられたと云う。

石田の家の前の野原で休憩した秀吉一行、
「前の家へ行って、茶を所望して参れ!」
秀吉に促されて、小者が走った。
「お館様が茶を所望してらっしゃる…。早よう、用意せい!」
言われて、佐吉の家では大騒ぎとなった。
「秀吉さまじゃ…。しかし番茶しかないがのう…」

「慌てない、慌てない。そこな冷たい茶を出せばよい。その間に、湯を沸かせばよい。まず、持って行ってくるぞ」
と大きな茶碗にたっぷり入れて、佐吉は秀吉のもとに届けた。

家に戻って、
「少しは、湯が沸いたろう?」
その湯で茶を濾して、また持参した。

そして、最後にシュンシュン沸いた熱湯で、お茶を濾して、小さな茶碗に入れて大事そうに持って行った。

「小僧、お前の茶はうまいのう…。こんなに美味いのは、初めてじゃ…。何か秘訣があるのかのう?」
「殿さま、秘策も何もございませぬ。突然のご所望ゆえ、あるがままをお持ちしただけでございます」

秀吉は自らの子供のころを思い出したようである。
「しっかりした小僧じゃのう…。どうじゃ小僧、長浜の城に来ぬか?」

冷たい茶で喉の渇きを癒してから、入れたての熱い茶を飲むと美味い。
ただそれだけのことであったが、秀吉はその機転がいたく気に入ったのであった。

秀吉の小姓となって、三成はめきめき頭角をあらわした。

当時、城勤めと言っても、することは戦のことである。

信長の命により、秀吉は中国攻めの戦線にあった。
もちろん三成もそこ戦線にいる。
三成の算盤の凄さとと要領の良さを見抜いた秀吉は、彼に兵站役を命じていた。

兵士の数、それに必要な装備・食糧を日々チェックしながら手配して前線に届けるという役である。

数千の兵士の分であればそう難しくはない。
調達先との交渉、そしてその物資の輸送、三成は難なくこなしたのであった。

前線の兵士は戦いのみに専念すれば良いとの状況を作り出した。
もはや近代戦争の域の戦いを展開したのであった。

秀吉の主家・信長が亡くなってからの三成はめまぐるしい忙しさになった。
それは秀吉が予定通りの天下取りに勤しんだためである。

柴田勝家との「賤ヶ岳の戦い」、家康との「小牧・長久手の戦い」雑賀相手の「紀州攻め」、「・・・」、いくつもの戦いに従軍した。

秀吉が関白になってからは、従五位下治部少輔になった。
そして次の年、近江で4万石の知行地を貰った三成は、豊臣秀長、秀保らに仕えた名将・島左近を何度も断られながらも、三成の知行の半分の2万石を差し出して迫ったという。

「欲のないお人じゃのう…。助けてやるか…」
島左近は感じ入って引き受けたと云う。

これを聞いた秀吉、
「主君と家来が同じ知行高であることなど、聞いたことはないわ」
と、いたく感心したと云う。
そして左近に、
「三成をよろしく頼んだぞ…」と、立派な陣羽織を取らせたと云う。

その後、三成は堺奉行に任じられ、堺を兵站基地に作り上げた。
この兵站基地が功を奏して、秀吉の九州平定が成就する。
平定後、三成は博多奉行に任じられ、島津氏の太閤検地なども行った。

三成の検地の働きから、秀吉は九州に33万石の領地を与えようとした。
しかし三成は、
「九州の大名になり候わば、大阪にて誰が豊臣の行政ができましょうや?」
と云って即座に断ったのであった。

三成を九州に配するのは秀吉なりに考えがあった。
朝鮮に出兵しようと考えていたのである。

秀吉がいよいよ朝鮮で事を起こす計画を打ち明けた時、三成は大いに反対したと云われている。

しかし戦が始まればまた別のこと…。
三成の音頭で博多兵站基地は十分に稼働したのであった。
そして秀吉の命令で三成は朝鮮半島に駐留、総奉行の役を担わされた。

この文禄の役、当初は勝ち戦に乗じ、半島奥まで攻め込んでいた。
ここまで来ると、物資補給が続かなくなる心配が出てくる。
今でいう北朝鮮の地域、38度線の北側である。
南北を分ける大河があり、戦闘状態での補給は極めて難しくなる。

三成は戦線を下げようと諸侯たちを漢城に集めた。
前線の諸侯たち小早川隆景、加藤清正、小西行長たちは、
「何のこれしき…。臆したか…。」
としぶとく抵抗した。
「貴公の云う事なんぞ、聞くものか!」
とあからさまに云う輩もいた。
会談は物別れとなった。

心配した通り、中国明軍が中朝国境の鴨緑河を越え朝鮮半島に入った。
平城にいた小西行長の軍、明軍に一蹴された。
他の隊も少なからず蹴散らされ、多少の被害は出た。

秀吉からは前線を下げろと云う指示が飛んで来ていた。
とにかく後退させる。
三成は前線後退に奔走した。

各諸侯、最後は三成の説得を受け入れ、しぶしぶ後退したのであった。
戦線を下げて漢城北方に軍を集結し、迎撃態勢を取った。
これが良かったのである。
そこに明軍が襲ってきた。
戦場は碧蹄館と云うところである。
戦力が集中できたことから、明軍に大打撃を与えたのであった。

明軍はそれ以上は深入りはして来なかった。
戦線は膠着状態となり講和に向かったのであった。

明国との講和については三成は中心的役割を果たした。
しかし戦闘派の加藤清正らとは、その後も意見が合わず、ほぼ絶交状態になってしまった事は、今後の秀吉傘下の政務に多大なる影響を及ぼしたのであった。

三成は朝鮮戦争の功が認められ、僅か31歳で近江19万石の佐和山城主になった。

その褒美を島左近にも分けてやろうと思って、
「左近、こ度の働き見事であった。加増をするぞ。所望を申せ」
「何の殿、勿体のうござる。今で十分でござる」
「何を左近、領主が加増されれば、家来も増えるのが当然であろうが…。理にかなっておらんぞ」
「いや殿、殿が例え50万におなりになろうと今で十分でござる。拙者への加増分は、他の者へ回して頂ければよろしかろうと…」
と左近も譲らなかった。

後日談であるが、三成が関ヶ原で敗戦してから徳川軍が佐和山城を攻めた。
攻め落として小早川秀秋、脇坂安治らの武将が入城した時、さぞや豪華な城で、私財も蓄えているだろうと思っていたらしいが、中身は19万石に似合わない質素な城であったことに驚いたと云われている。

金は有効な使い方をするという三成流哲学であったのであろう。

まだまだ秀吉の戦いは続く。
小田原攻めなどして、またまた朝鮮半島に出兵することとなった。
慶長の役と云われる。

三成は博多にて戦争準備に余念がなかった。
ある時、秀吉から
「小早川の筑前・筑後をまとめてお主にやる」
との話が出たが、これも三成は即座に断ったと云う。

今度の戦争では福島正則や増田長盛らと共に大将として出征することが決まっていた。
いよいよと云う時に秀吉が病死してしまったので、道半ばに撤収となり、その奉行も務め卒なくこなしたのであった。

秀吉の遺言にて、まだ5歳の当主秀頼を助けるために五大老、五奉行が選ばれていた。
五大老は徳川家康、前田利家など…、五奉行は三成、増田長盛など…、であった。

この中から秀吉は家康、利家をリーダーとして合議制で政治運営をするようにと遺言を残していた。

三成は不正を極度に嫌い、常に自らの信念に基づいて政権運営を担当した。
しかしながら、その謹厳実直な性格が融通のきかない傲慢不遜、横柄との印象を豊臣大名に与え、人望は得られなかったのである。

秀吉は大名同士の婚姻を禁じていた。
しかし秀吉が死去していくらも経たないのに、家康はこれを無視して、有力大名との親戚関係を作ろうとした。

当然のことながら、三成は都度、家康を詰問する。
大阪城内では両者の激しい口論が絶えなかったと云う。

そこに利家が登場して、
「まあ、まあ、まあ…」
と三成をなだめ、何とか険悪にならずに済んでいたと云う。

しかし、前田利家が他界するとそのバランスも崩れていった。
家康の独壇場となり、他方、三成は孤立して行ったのであった。

三成に危機が訪れたのは、利家が亡くなって直後であった。
以前から対立していた武闘派諸将、加藤清正、福島正則など七将達に三成の大阪屋敷が襲われた。
三成は佐竹義宣の助太刀により、大坂から伏見城に逃れたと云う。

先の七将達は伏見まで追ってきた。
伏見城には家康がいた。
家康の仲介により一旦和睦となるが、家康に説得され、五奉行の職を引退し、佐和山城に引きこもることになった。
まさに家康の思う仕掛けに嵌まってしまったのであった。

いよいよ家康は徳川政権樹立目指して、関ヶ原の戦いの準備へと進んでいったのであった。
三成は豊臣家に逆らう徳川を撃つという使命感だけで戦争関ヶ原に挑んだのであった。

三成が打倒徳川の計画を最も近しい越前敦賀の大名・大谷刑部吉継に打ち明けたことがある。
「今の徳川に勝てるわけはなかろう…。止めとくが上々…。お前には才智はあるが、勇猛はない。人望もない故、止めとくが…」

「いや、徳川を見過ごすは豊臣家の為ならず。秀吉さまの遺言をどう考えるか? 儂一人でもやる。太閤の遺言を踏みにじるものは許せん。それが正しい道であると信ずる…」
「お前の考えは分かった。貴殿は拙者に心底付き合ってくれた。今度は貴殿に付き合ってやる…。よし!決めた」

以前の秀吉主催の茶会の時であった。
ハンセン病を患っていた刑部に茶碗が回った時、彼はいつも飲む真似をして隣に回すのであるが、この時、傷口から膿が茶碗に落ちてしまった。
居並ぶ諸侯も目撃しており、刑部は茶碗を次に回せなくなった。

その時三成、やおら立ち上がり、
「刑部! 喉が渇いて堪らんわ。早よう回せ!」
と叫んで、茶碗を取り上げ、最後の一滴まで飲み干したと云う。

また戦の前に増田長盛と会談したことがあると云う。
三成は、
「我らは少扶持ゆえ、兵力もままならぬ。畿内の浪人を集めて決戦に挑もうではないか?」
「いや、時期を待った方がよかろうと思われるが…」
「生前の太閤殿下は貴殿と拙者に100万石を下さると云われたことがあった。我らは二つ返事で断ったが、あの時貰っていれば今になって兵力の心配は無用じゃのになァ…」
と苦笑いしながら、長盛とは分かれたと云う。

三成は豊臣主家をないがしろにする徳川を諌めようと戦いに挑み、僅か40歳の若さで散っていったのであった。

勝敗よりも、その行ないが正しいかどうかの判断が優先していたのであった。

後に、水戸黄門光圀が三成のことをこう評している。
『石田三成は立派な人物である。人はその主君に尽くすのが義と云うものである。徳川家の敵と云って三成のことを悪く言うのは良くはない。君臣とも三成のように心がけるべきである』
と、義の人として見習いなさいと徳川家中を戒めている。

「騒がしき 者どもの中 道信じ 義を貫きて 花と散るなり」

〔完〕

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