今回は毛利の外交僧、そして豊臣政権の大名「安国寺恵瓊(あんこくじえけい)」を追っかけて見ることにする。

時代は室町末期である。
広島安芸の国の守護は武田信玄の同族、武田信重が努めていたが、大内氏に攻められ、重信は自害、安芸武田氏は滅ぼされた。

その息子は家臣に連れられ、命からがら安国寺と云う名の寺へ逃げ込んで、九死に一生を得たという。
その息子、幼名竹若丸、後の名を安国寺恵瓊という。
まだ幼い4歳であった。

実は武田氏を滅ぼしたのは、この幼児が後に仕えることになった大内氏の家臣、毛利元就であったとは皮肉なものである。

竹若丸は明けても暮れても、日々、安国寺で僧としての修行に励んだ。
片っぱしから書物にも触れていった。

月日が流れ、そろそろ元服を迎えるころ、京都の高僧が安国寺に立ち寄った。
東福寺の住持、竺雲恵心(じくうんえしん)であった。
毛利元就はこの恵心に帰依していて、恵心から京都の動きや諸侯の情報を得ていて、禁裏を始め諸侯との駆け引きもしてもらっていた。
いわゆる外交僧として動いて貰っていた。

安芸に来ては、安国寺を常宿としているので、竹若丸とも親しくなっていた。

ある日、恵心は竹若に、
「竹若もそろそろ、元服じゃな。いつまでも、ここでは、何も変わらんぞ…。どうじゃ、拙僧の寺に来て、皆の中で揉まれて見るか」
恵心は見込みのありそうな者を見付けては、東福寺で修行をさせていた。

「ここを離れたくはござらんが、都には行ってみとうござる」
話は速く動いた。

武家であるので、次の日恵心を烏帽子親にして元服を済ませ、竹若丸改め武田一任斎正慶、法名を恵瓊と名乗ることになった。

そして、安国寺の僧籍のまま、京都へ同行したのであった。
恵心はとりたてて急ぎのことがなかったので、京都への道々、知り合いの武将や寺に立ち寄り、にこやかにふるまい、四方山話に花を咲かせていた。

その都度、恵瓊も、
「恵瓊と申す若輩者、以後お見知りおきを…」
の言葉を発するのみであった。
しかし、これがあとあとになって効いてくるのであった。
外交僧恵心の代理の恵瓊、これがスタートであった。

途中の摂津や大坂の街は船でやり過ごしたので、良くは見えなかったが、山崎で船から下りて、天王山から京の町を初めて見た。

恵心はあれこれ説明してくれたが、何も頭に残らなかった。
川や池の向こうに広がる広大な街の風景だけが目に焼きついた。

「さあ、参るぞ」
そこから約一時、東福寺を目指して早足に歩いた。

東福寺には色んな出自の若い僧がいた。
多かったのは、応仁の乱にて職を失った武家の子弟であった。
先輩僧の中に入り込み、日々修行を続けた。

時々は、恵心が
「さあ、参るぞ」
と云っては、御所・禁裏や武家の屋敷に連れて行ったくれた。
恵心は恵瓊の才能を見抜き、恵心の様な外交僧に育てようとしていた。
それに恵瓊は武田の一族、源氏の系累であったことも作用している。

連れられていっても、恵瓊の云うことは決まっている。
「恵瓊と申す若輩者、以後お見知りおきを…」
と云うことだけであった。

東福寺に修行僧として入山してから、はや10年以上も経った。
恵瓊は京都の禅林の中では、メキメキ頭角をあらわしていた。

ある日、恵心は恵瓊を安芸の国に同行させた。
恵瓊としては、久々の里帰りである。
まず安国寺に入り、住職として、ご本尊に対面した。
恵心・恵瓊の師弟は旅装を解き、しばしのくつろぎを得たのであった。

「明日は、元就殿に会いに行くぞ…。儂はもう年じゃから、安芸までは、これが最後じゃ…。元就殿には、お前を代わりに寄こすと言ってある。親の仇ではあろうがのう…。こだわりなんぞは捨て、もっと大きな仕事をな…。お前なら出来る 器は儂よりも遥かに大きいからのう…」
「恵心様、何から何までかたじけのうござる。天下の法、天命の妙を、十分に御教示賜りてござる。恵心様の名を汚すことは、決して致しませぬ。ご安堵、賜りたく…」

かくして恵瓊は、毛利元就の下で働く外交僧となったのである。

毛利に仕えてから、近隣との戦いに出かけた。
手始めに、九州の大友氏との和睦を取りまとめたりした。

しかし、程なくして元就が亡くなった。
何も感動はなかった。
元就の遺言があった「毛利は天下を目指さない」と…。

恵瓊は再び京に出た。
元就の逝去の報を受けた諸侯が、どう動くか?
不穏な芽は摘まないといけない。

東福寺に帰った。
僧の道を歩みながら、将軍や諸侯、禁裏との付き合いにも余念がなかった。
足利将軍家からは頼りにされた。
足利将軍の最後の砦は禅寺と毛利であったのである。

この時、恵瓊は禅宗の最高の地位まで上り詰めたのは、頷ける。
東福寺はもちろんのこと、南禅寺や建仁寺の住持ともなった。

しかし信長の勢いは強かった。
日の出の勢いであった。
この時、恵瓊はこう予言している。
「信長の勢いも5年か3年であろう。その時は高転びに横死するとみえる。藤吉郎は中々の人物である」

話を先に進める。

信長軍の毛利攻め・中国攻めである。
この戦いは秀吉だけだと、長期戦となり、痛くも痒くもないが、信長が戦線に出てくると毛利は負けることになるのは、火を見るより明らかだった。

信長を来させない これが最良の策である。
恵瓊は京で奔走した。
信長の横暴に手を焼き、憎しと思っている朝廷、公家、僧、武家たち、
「信長の出発までに襲う」
これが第3次信長包囲網である。
密約は出来た。
実行者も決まった。
信長に恨みを持つ、浪人武士、浪人僧、忍びの者…。
黒装束の部隊を編成した。

信長本体は明智光秀隊と共に、備中高松へ向かう予定であった。
光秀隊と合流するまでに襲わないといけない。
その最後のチャンスが本能寺の変の日、天正10年6月2日であった。

恵瓊は信長横死の知らせを備中高松にて今や遅しと待っていた。
ようやく届いた。
どうやら敵将秀吉にも届いたらしい。

恵瓊はじらしてやろうと思っていた。
そこに、秀吉からの軍使がやって来た。
「和睦したい。条件は毛利の領地の半分を差し出すべし…」
「何を、バカなことを…。 帰れ!」
と帰した。

また、やって来た。
「条件は保留。高松城、城も人も明け渡すべし…」
「だめだ!」

秀吉は早くこの場を離れたいのが分かっていた。
「格好つけさせて、恩を売ろうか?」
と思うようになった。
「毛利に落ち度はない。城主に切腹させる故、城も城兵もお構いなし。これでどうじゃ?」

時間はかかった。
次の軍使は中々来なかった。
この時、秀吉はもう姫路に向けて駆けていた。
和睦はなった。
秀吉は勝手に和睦し、戦場を勝手に離れていた。
信長に知れたら軍規違反で、直ぐの切腹ものである。

これで、毛利は助かった。
高松城主清水宗治を失ったことは残念ではあるが…。

恵瓊も儲けた。
秀吉に恩を売ることに成功した。

和睦は一応3年後に成立した形となった。
毛利が秀吉に臣従することで、領地安堵となった。

その後、恵瓊は秀吉に取りたてられた。
禅林の高僧でありながら、豊臣大名となった。
そして伊予6万石の領主、自寺安国寺も1万5千石の領地となって、立派な伽藍を備える寺になった。

大名として、小田原攻めやら朝鮮の役にも参戦し、それなりの軍功をあげた。
小早川とは仲がよく、常に一緒の行軍をしたのであった。
一方、吉川広家とは仲が悪く、口を開けば喧嘩だったそうである。

そして、荒廃していた京都の建仁寺の再建にも力を入れた。
安国寺の方丈をそっくり寄進するとともに、寺としての体裁を取り戻した。

恵瓊は大名になったことで、その慧眼を失ってしまったかのようだった。
秀吉の将来、家康の動き、全く読めていなかった。

秀吉の死後は大坂城にいた。
時々、京都まではでかけたが、西国方面には行かなかった。

東福寺に退耕庵と云う塔頭がある。
恵瓊が建てた寺だが、ここの茶室で石田三成や宇喜多秀家と家康討伐の謀議を度重ねた。
忍び天井や伏侍の間を装備して不意に備えていた。

大垣を戦場と想定し、家康討伐大作戦を立てていた。
大将は毛利と決めていた。
と云うか、それ以外にはいない。
秀頼を大将にしたらいいのだが、淀殿は、
「豊臣家大名同士の戦いでしょう。何で秀頼が顔を出すの?」
と一向に乗って来ない。

恵瓊は毛利に行った。
輝元と直談判して何とか担ぎ出した。
しかし関ヶ原の時には、輝元は大坂城にいただけだけで、戦場には出て来なかった。

いよいよ、家康との決戦の時を迎えた。
三成は大垣城に、毛利一族は吉川広家隊を先頭に、恵瓊隊、その後ろに、毛利秀元隊と大垣を望む南宮山に布陣していた。
小早川隊は西の松尾山にと、2段3段の構えであった。

しかし、家康軍は大垣城・南宮山をやり過ごし、関ヶ原まで入ってしまった。
関ヶ原にて戦闘は始まったが、先頭の吉川広家さらには小早川も家康に内通していたため、毛利一族は一切動かなかった。
もちろん恵瓊軍も吉川が動かないので、挟まれて動けなかったのではあるが…。

陽が明々射す頃には、勝負は着いていた。

戦い終わってから恵瓊は吉川に、
「毛利の西軍加担の責任は全て拙者にある。切腹して、徳川殿に侘びを入れる」
と云ったが
「それより、ここから、一刻も早く離脱するがよかろう」
と逃げるように仕向けた。
恵瓊がいると迷惑だったのは頷ける。
毛利も何かのお咎めを負わなければならなくなる。

恵瓊は逃げた。
伊勢、近江、から京都市中を逃げ回ったが、徳川方の追手に捕らわれ、三成や行長と共に、六条河原で磔に処されたという。

恵瓊の最期は、毛利に裏切られ、殺されてしまうことになった。
親を毛利に殺され、自分もとは、思ってはいなかっただろうに…。
大家毛利の生き延びる様を見たような気がする。

恵瓊僧上は、現在は京都建仁寺方丈の裏庭で静かに休んでいる。
どんな夢を見ているだろうか…?

〔完〕

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です