紀ノ川流域の和歌山平野、中域と右岸(北側)の根来寺、左岸(南側)と河口の雑賀荘、合わせて紀州衆、一箇所に集まるより、2箇所の方が迅速、根来衆は大坂泉州の守り、雑賀衆は海岸べりの守り、それで上手く行っていたのであった。

この、紀州衆の陸の守りの最前線は、根来寺を本拠とし、北の和泉山脈を越えて、少し北へ行ったあたりである。
千石堀城であった。根来衆が守っていた。

そして海べりの泉州の浜城、これは雑賀衆、千石堀城との丁度中間辺に積善寺城、これは根来衆。
この3つの砦で、紀州を守っていた。

紀州衆は信長方に付いたり、その反対側本願寺などに付いたり、はたまた家康側に付いたりして、ケースバイケースで、戦っていた。

信長の反対勢力に付いた後は信長の怒りを買い、攻めては来るが、一度も負けたことは無い。
適当に和睦をして、信長側に花を持たせて帰ってもらったのであった。

信長も秀吉も、「こいつらを早く潰さなければ、おちおち出来ない」と思っていたに違いない。

秀吉は、紀州衆を攻める口実を探していた。

天正12年(1584年、信長没2年後)に、小牧・長久手の戦いがあった。
秀吉軍と織田信雄・徳川家康連合軍との戦いであった。

紀州衆にとっては、どちらでもいい戦いであった。
元々、自領は安堵されている。
他人の土地までも、恩賞で貰う積りも無い。
お呼びが掛かれば、その時考えればよい…。

紀州衆は小牧長久手の時、家康側と同盟の約束をしていたが、戦地が尾張であったため、少数を派遣するだけでの対応であって、多くの紀州衆は領内にいた。

「さかな釣りでも、しとこうかのう」
と、のんびりしていた。

そこへ知らせ、
「大阪方が、攻めてきた。援軍を!」
泉州の出先砦からの早馬である。

「なにをするか 馬鹿ものどもが…」
「雑賀にも連絡せい! 海から行ってくれと…」

程なく和泉山脈を越える根来の一団、加太沖を進む雑賀の船団があった。

秀吉方は、紀州が出たことを聞き、前線をサッと後退させた。
秀吉軍の深追いをする形で紀州衆は、大坂方の領地に入った。
これが、秀吉に口実を与えたのであった。
まんまと秀吉のおびき寄せ作戦に嵌められたのであった。

「儂の留守の間に、大坂を攻めよった。紀州のやつらがのう」
口実が見事にできた。

小牧・長久手の戦いが終わった次の年、秀吉は紀州を攻めた。
秀吉軍は小早川隆景の拠出による毛利水軍も合わせて約十万の大軍である。
陸地隊は山側の根来衆が守る千石堀城と、同じく根来衆が守中央の積善寺城と、そして雑賀衆が守る海岸べりの沢城に、そして毛利の水軍は岸和田に集結した。

秀吉も、岸和田城に入った。
天正13年3月、小牧長久手の戦いから丁度一年後のことであった。

岸和田城での軍議…、
「紀州の奴らはのう、無欲な奴らじゃから手ごわいぞ…。それに、鉄砲はピカイチじゃからな…。信長様も手を焼かれたことは、存じてあろうのう」
「御意、石山の折には、横から撃って来て、手こずり申した。じゃが、その石山はお館様のお力で、お潰してなされた。信長様の気慨を持って、怖気付くことなく攻めるが肝要と存ずる」

「秀次、良く言うた。怖気付くことなくのう。儂の言いたい第一はそれじゃ…。次にのう、戦の順番じゃが…、
3つの砦を同時に攻めることにする。雑賀の船には、小西! 毛利の船団を上手い具合にな…。こっちは十万、敵は一万、赤子の手をひねる様なものじゃ…。砦にいる人間は女・子供に至るまで、構わんから殺すのじゃ…。するとな、他の砦もな、恐怖感から、逃げ出す輩もいる。守りの人数は少のうなる。これが、鉄則じゃ…。
砦を落としたら、紀州へ攻め込むぞ…。根来寺、雑賀荘、そして、最後は太田城の順じゃ…。戦に関係ない奴らは、逃がしても良いぞ…。但し、武器は取り上げろ…。あとがな、治め易くなるからのう…」

戦端は泉州東端の山側、千石堀城で開かれた。千石堀城の守りは千五百人。
秀吉軍は羽柴秀次を大将に、その10倍の、一万五千人で攻めた。

寄せ手が来るごとに、城内から弓・鉄砲を撃った。
「城内より鉄砲を放つこと、平砂に胡麻を蒔くがごとし」と言われる猛烈な射撃により、筒井勢などは、八千人のうち、半数に近い兵士が撃たれ、死傷した。
さすがに、根来の鉄砲は鍛えられており、上手いものである。

この苦戦を見て羽柴秀次は直属の兵三千を、側面から城に突っ込ませた。
しかし先程と同様に鉄砲で粉砕され、僅か半時で、千人強の死傷者を出した。

こういう時に力になるのは、特殊な訓練を積んでいる伊賀者達である。
城の背後に迂回して、城に接近し、城内へ火矢を射込んだ。
火矢は城内の煙硝蔵の引火爆発を誘引し、城は炎上した。

千石堀城は、大火災となった。
守城側では、城内の人間は焼死、討って出た城兵も帰れず、ことごとく、討ち取られた。
秀吉は人も動物も皆殺しにするよう命令していたので、城内にいた者は全て、そして馬や犬猫に至るまで殺されたのであった。

同じ日の夕刻、防衛線の中央にある積善寺城でも戦闘が開始された。
攻め手の秀吉軍は細川忠興・大谷吉継・蒲生賦秀・池田輝政らであった。

ここも、根来衆の鉄砲が奮戦した。
激戦が繰り広げられたが、寄せ手が優勢で、攻城軍は城内に引き籠もった。
翌日、貝塚御坊住職の仲介により積善寺城は開城した。

最後の砦、大坂湾沿いの沢城でも戦いが始まっていた。
城を守る雑賀衆、攻めるのは高山右近・中川秀政のコンビである。
秀政は余呉湖の戦いで戦死した清秀の子である。
ここでも押し寄せる上方勢と城兵の鉄砲という図式になっていた。

しかし中川秀政は果敢にも陣頭に立って攻城し、本丸まで追い詰められた城兵は投降を申し出た。

これにより、紀州衆の出城は全て陥落した。
いよいよ、秀吉軍は和泉山脈を越えて、紀州に突入した。
計画通り、根来寺へ向かった。

秀吉軍は前線を突破した勢いで怒涛の如く根来寺に攻め込んだ。
根来寺には雑賀の猛将・太田左近を先鋒に、僅か百五十の鉄炮隊を率い、寺外で守った。

左近はさすがに雑賀の頭領である。
二万の豊臣秀長隊を一旦は敗走させたと云う。
しかし、あまりにも兵数が違うため、左近は程なく太田城へと退却していったのであった。

残るは本山根来寺。津田監物という大将、怖れることもなく、精鋭の鉄炮衆五百で迎え撃った。
津田監物は寺に敵兵が乱入して白兵戦となっても戦い抜き、そしてついに秀吉軍の増田長盛によって討たれたのであった。
3月21日のことであった。主将の討たれた根来寺にもう余力は無くなった。
一部の堂宇を残して根来寺は炎上した。

焼け残った根来寺の大塔は、今なお健在で、国宝にも指定されている。
徳川の時代になって、焼けた堂宇は再建され、当時の姿が取り戻されている。

実はこの時、雑賀衆は内部の切り崩しにあっていた。
秀吉の常套作戦である。

秀吉側に寝返った雑賀荘の岡衆が、同じ雑賀の湊衆を銃撃し、雑賀は大混乱に陥った。
混乱の中、舟で脱出を図る者多く、人が乗りすぎて沈没する船が出るなどして、大勢の死者が出た。

次の日、秀吉側の先鋒が雑賀荘に侵入し、その次の日には根来寺から、秀吉も雑賀荘に入った。
粟村の土橋氏居館が包囲されるとともに、市中にも放火が相次いだ。
雑賀荘は「雑賀も内輪散々に成て自滅」と評される最期を遂げたのであった。

最後に太田城が残った。
太田城は宣教師フロイスが「一つの市の如きもの」と表現したように、城下町を形成し、その周囲に水路を巡らした環濠集落であった。

秀吉は悩んだ。
「兵糧攻めが確実じゃが…、手間はかからんが、時間はかかる。こんなとこで、手間取っては、家康に馬鹿にされるな…。手間と金はかかるが、やはり水攻めかの?」
「御意、殿は、水攻めがお得意でござる。早くに片づけ無いと、大変なことになるやも…」
「あい、分かった。皆の者、普請に励めよ!!」

秀吉は水攻めが始まれば数日で落ちると考えていた。
しかし、折角築いた堤防が破れるなど、籠城側は神がかりを信じ、粘り強く抵抗した。

早期決着のために、攻城側は水軍を堤防内入れた。
安宅船や大砲も動員して攻撃した。
少しの攻防戦はあったが、この作戦に籠城側は抗戦を断念した。
翌日、城側の主だった者の首を差し出し、降伏した。
他の雑兵や市民、農民らは赦免され退城を許された。

この様に、紀州衆や市民、農民らは良く戦った。
しかし、十万の組織化された戦闘集団には勝てなかった。

根来寺や粉河寺、雑賀の荘や太田城、悉く炎上した。
雑賀衆、根来衆の拠点はもう無くなった。
しかし、悲感ばかりはしていられない…。

反秀吉を貫き通した、雑賀衆・根来衆は、家康に抱えられ、この後は、徳川家・幕府の大いなる力になって行くのであった。

まさしく、歴史の妙である。

徳川が、この紀州に紀州徳川家を置いたのも、分かる様な気がする。

〔完〕