かつての戦国の世に、紀伊の国に雑賀衆と云われる集団があった。
これは、組織化された集団でない。
事あるごとに、集まって来ては、それぞれ思い思いの大将に付く。
仲間同士で戦うことも多々あった。
自由な寄り合い集団であった。

紀州人の気質は人に支配されるのも、するのも嫌いな、わが道を行くの性格であった。

それでいて何か事が起これば、さっと集まるような寄り合いの文化であるのも一つの特徴である。

特に、リーダーも求めない。
紀州弁で、『連れもていこら』は、連れ立って行こうよ、という言葉通りである。

雑賀衆にはリーダーがいたとされるが、三人もいてそれぞれ鈴木孫市(あるいは雑賀孫市)を称したと云われる。

大きな揉め事も無く、紀州の守護であった畠山氏も何もせず、放っておいたら良かった。

戦い好きな者は、地の利を生かし、いち早く鉄砲を手に入れ、またたく間に上達した。
鉄砲は上手かった。

ポルトガルより日本に伝わった鉄砲、その2本の鉄砲のうち一本を根来衆の津田監物という人物が持ち前の交渉力で手に入れた。

その鉄砲を根来衆の鍛冶屋が模倣に成功して、それを優れた鍛冶技術を持っていた雑賀衆職人が量産に成功したのであった。

鉄砲には火薬が必須であるが、独自の貿易で財を成していた雑賀衆にとってはた易いこと、火薬の原材料「硝石」を十分に手に入れ、多くの鉄砲を作り上げたのであった。

雑賀衆は鉄砲を作っただけではない。
それを使う技術も自ら作り出した。
そして鉄砲集団として、各武将から傭兵されたり、恐れられたりするようになった。

この雑賀に端を発する鉄砲が、戦国の戦いを変えてしまったことは言うまでもない。

まず信長とのこと…。
信長が雑賀に痛い目に遭ったのは石山本願寺をめぐる戦いである。

伊勢長島、越前の本願寺勢力を殲滅した信長、残ってるのは大坂石山本願寺であった。

本願寺攻めの信長軍の軍議、
「石山のくそ坊主めが…、簡単にはいかんぞ…、誰ぞ考えを言うて見よ!」

「猿めの浅はかは考えは…、」いつも秀吉がトップにシャシャリ出る。
「坊主の後押しをしている毛利の根を断つことが肝要と存じまする。瀬戸内の海路を絶つこと。武器弾薬、食料輸送の根を絶てば、おのずから勝利はお見方に…」
秀吉らしい兵糧作戦である。

「禿はどうじゃ?」
「今、風当たりがきつうございまする。禁裏あたりでは、あれこれ噂していると聞きまする。ここは、しばらく時間をおいて…。帝のご尽力にて、勅命和睦が良かろうと存じまする」
「そんなに、時間は無いぞ…」
「そこでござる。丹羽殿には妙策ありと聞いておりまする」

「なんじゃ、長秀!」
「和睦中に、我が軍は石山包囲の砦を築くのでございまする。特に、南と西でございまする」

「勝家はどうじゃ?」
「殿! 北は宗徒の残党、朝倉浅井の残党が、あばれ回っておりますゆえ、この抑えはみどもが抜かりなく…」

「相分かった そのようにせい! 寝るぞ…」
信長軍は、一度決めたら動きは速い。
その速さも、戦国一であったろう。

この軍議の翌日から信長軍は天王寺に砦を築き、橋頭保とした。
この砦を護るのは原田直政と明智光秀。

雑賀衆鉄砲隊を主力とする本願寺軍、天王寺砦を潰そうと何度も攻め立てて来た。

信長軍も鉄砲を持ってはいるが、兵士の技量に任せて撃つだけのこと。
統制のとれた撃ち方ではなかった。

何度目かの時、信長軍は築いた砦から撃って出た。
雑賀鉄砲隊はそれぞれ兵士の射撃が上手い上に、2段構えで撃ってくる。
1列目が撃って、弾を込めている間に、2列目が撃ってくる。
絶え間なく撃ってくるに等しい。

撃って出たものの、やはり力及ばず完膚無きまでに叩きのめされた。
直政は戦死、光秀はほうほうの体で砦に逃げ込み、信長宛て援軍要請したのであった。

暫くして本願寺軍と雑賀衆は今日こそ砦を落とすと云う決意で、1万5千で砦を包囲した。
楽に勝てる積りではあったが、何と信長が戦場に出て来ている。
少し計算が狂った。

信長軍の方はと云えば、砦を守るのが7千、後詰の本隊が僅か3千である。
しかし信長出陣により、士気は上がっていた。砦の光秀隊も打って出た。
信長本隊と挟み撃ちにしようと云う考えである。信長も前線まで行って戦った。

雑賀の鉄砲隊は縦横に移動しつつ撃ってくる。
信長隊も応戦する。信長本人も孫市から直接、足に見舞われたと云う。

しかし信長軍はこういう戦いは強い。
やはり経験が違う。 歴戦のツワモノである。
本願寺軍は寄せ集め軍の悲しさか、押されて本願寺向いて退却を始めたのであった。
信長は追撃はするが、深追いはしない。
退却した本願寺軍、以降は野外で戦うことはしなかった。

一方、大坂湾の木津川河口は様相が違った。
ここは本願寺軍が死守し、毛利水軍との兵糧の通路は確保していたのであった。
本願寺軍は戦死者は出したものの、様子は何も変わっていない。

信長は困り果てていた。
「やはり猿の云うように、武器・食糧供給路の封鎖か?」
「九鬼に申し渡せ! 出番じゃとな」
熊野水軍である。紀伊半島東部を本拠とする。
太平洋をバックに戦う為、内海のチマチマした戦は、得意ではない。
戦う前から勝負は決まっていたようなものである。

毛利・本願寺方の村上水軍と大阪湾で戦った。
九鬼の船は大方燃やされた。

更に困り果てた信長、九鬼に「燃えない船を造れ!」と命じた。
本願寺とは、勅命和睦で休戦中とした。

船ができるまでじっとしている信長ではない。
「雑賀に行くぞ!!」
と、和歌山攻めを下知した。

紀州の雑賀は、紀の川河口に本拠があり、現在の和歌山市、海南市を居城域としているが、基本は出向いて戦う派遣軍の性格である。

信長軍がこれを攻めた、和泉山脈孝子峠を越えて、大軍が和歌山平野になだれ込んだ。
これも勝負は決まっていた。
自領を護るという考えがない雑賀衆、領袖の鈴木孫市は信長に早々と誓紙を差し出した。
『以後の反抗はせず』という趣旨である。

不確かな、約束ではあるが、本願寺の力を少し削ぐには効果があった。

そうこうしているうちに、信長が待ちに待った九鬼熊野水軍の鉄船が完成した。
7隻が進水した。紀伊水道から大坂湾木津川河口へと進めた。

本願寺村上水軍は、数百隻でこの水路の守りを堅めている。
「なんじゃ、ありゃ?」
と云いながらも、次々、火玉を撃ちこんで行く。
しかし、役には立たない。
逆にこちらに撃ち込まれた火玉は、燃え広がるばかりである。
村上の船は真っ赤に燃えあがった。
大坂の海と空を染めたのであった。

信長はほくそ笑んだ
「どうじゃ、作戦はうまく行ったろう。もうじき、兵糧も無くなるはずじゃ。皆のもの、刈り獲り次第じゃ…」

一方、本願寺、
兵糧を絶たれては、雑賀も釘付けにされては、戦う意欲も出ない。
急速に和議に向かうことになった。
『石山の地を信長に明け渡すこと 武装解除すること』これが趣旨であった。

和議を受け入れた本願寺法主顕如は紀州鷺の森の雑賀の庇護の下へ隠遁した。
隠居するに当たり、法主を息子の教如に譲った。

しかし、この教如、和議には納得せず、唱戦派とともに石山に立て籠った。
困った顕如、同じ嫡子の准如を法主に変えて、教如も強引に隠遁させたと云う。
教如が本願寺を出て行く時に、本願寺は燃え上がったのであった。

余談ではあるが、この石山本願寺の地、信長に渡った後、秀吉が大坂城を
建てたことは、良くご存じのところである。
尚、この後、本願寺は秀吉の時代に西本願寺として再建された。
また、家康の手により、教如を法主に東本願寺が建立された。
この時から、その勢力が分割されたのである。

これにて毛利も無言。信長の畿内での憂いは無くなったのであった。

〔完〕

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