「を」と云う字はとかくややこしい。
元々はひらがなの読みに「を」を充てた言葉には、「尾」「小」「丘・岡」「雄・男・牡」「緒」などがあるが、現在は助詞の「を」を除いて全て「お」に置き換えられている。

また発音も、標準語や東京方言では全て「o」であるが、かつて「を」が充てられた言葉の発音を「wo」としているところもある。

とにかくややこしい「を」であるが、今回は読みを昔に戻して、JR湖西線の小野駅を訪ねてみることにする。

JR湖西線は琵琶湖の西岸を通る線区である。
京都と北陸を最短で結ぶ線区として今から約40年前に開通したものである。
最短を目指したため全線には新幹線と一緒で信号機はない。
高架橋とトンネルだけで構成されている在来線では珍しい線区である。

関西と北陸の間を良く行き交う人でも、特列車はは湖西線内には停車しないため、存在する駅名はあまりご存じでは無いのではと思われる。

京都駅から湖西線の各停に乗ると、先ずは山科に停車する。
その後は東海道線と別れ、かつての天智天皇の大津京、比叡山坂本、堅田などに順番に停車してゆく。
対岸の守山や栗東とを結ぶ琵琶湖大橋を過ぎると「小野」と云う駅に到着する。

この小野駅は湖西線開業当時には無かった駅である。
琵琶湖西岸を住宅地として目を付けた京阪電鉄グループが「琵琶湖ローズタウン」を開発したが、その最寄駅として25年前に作られた請願駅である。
費用は勿論京阪電鉄グループの全額負担と云われている。

小野駅を下車すると新しい町並みが開ける。
住宅や道路も新しい。

この住宅地の真ん中の小高い丘に小野妹子を祀った「妹子」神社がある筈である。
住宅街の中の小路、幹線道路を歩いてその高台へと向かう。

小野妹子公園(唐臼山古墳)という場所にたどり着いた。

小さな祠がある。
小野妹子は聖徳太子のブレーンで、遣隋使として中国当局と果敢に折衝し、我が国を独立国として認めさせるなど多大な功績のあった人物である。
この付近が妹子の生誕地で神社が祀られている。
お参りして神社の裏手の広場に出てみる。

山側には比良山系の蓬莱山やお椀型の堂満岳が見える。
反対側には眼下に琵琶湖が広がっている。
対岸には近江富士(三上山)も良く確認できる。

この高台の下には小野小学校がある。
この小学校の前を通り、一旦下の川「丹生川」まで降りて、次の高台に上がって行く。

そこには「小野道風神社」がある。
柳の枝に蛙が飛び付くのを見て書道に一念発起し、三蹟とまで云われるようになったになった小野道風が祀られている。
お参りして、更に北へ向かう。

道は竹藪の中である。
この丘は古墳らしい。途中にその看板「石上古墳群」も建てられている。

民家の間を抜けると、鬱蒼とした杜の中に「小野神社」がある。

小野一族の神社であるが、それとは別に「小野篁神社」、それに参道に「小野小町の塔」が祀られている。
参議小野篁(たかむら)は冥途通いの篁で良く知られている。
また、小町は良くご存じ歌人六歌仙である。

お参りしていると、小野神社の中から神官と世話役みたいな人が出てきた。
扁額の壊れたのを手にしている。
「猿にやられたんですわ…」
猿は神社も何も分からないのだから仕方ないのであるが…。

神官の話を聞いた。
「小野一族は南北朝の時、南朝方だったので、戦後、足利尊氏に領地は全て召し上げられたんですよ。それで滅亡です。この神社だけはかろうじて残されたんです」

なるほど南北朝が生きているんだな、と思った次第である。

帰り道は北にある和邇(わに)駅に向かうことにする。
街道への出口左手に小野篁が創建したと云う天台宗の寺「上品寺(じょうぼんじ)」がある。
街道を北へ進む。
和邇川を渡り、渡った所にある和邇公園を眺めて更に北へ進む。
途中の三叉路の真ん中に高さ2m程度の自然石に「榎」と云う文字だけを彫り込んだ石碑を見る。
この地点から道路を山側に行くと「途中」と云う峠になり、それを南の京都方面に越えれば「大原」、北の比良山方向に向かえば安曇川を辿って「朽木地区」、その先は若狭となる。

三叉路を過ぎると「わにの郷」と名付けられた商店街となる。
この商店街を過ぎて和邇駅に到着したのであった。

〔をの駅 完〕