大阪府の北部を滔々と流れる淀川に流れ込む京都の3つの川、桂川、宇治川、木津川の合流点の街角をウオッチングしてみることにする。

合流点そのものは京都府の八幡市域に属するが、街というと、直ぐ上流にある京都市伏見区の淀・納所の地域である。
この淀・納所は伏見区でも突出した地域であり、さながら大腸から突出した盲腸の様である。
今回はその突出部分のウオッチングである。

先ずその先端であり一番南の木津川右岸(北側)からスタートする。
淀地域はここから長細い街で、北西方向に連なっている。
木津川の土手から、淀生津(なまず)、淀際目(さいめ)、北川顔(きたかわづら)と連なり、宇治川の土手に至る。
この辺りは自動車道沿いに、企業の事務所や一般住宅が並んでいるところである。
いわゆる普通の一般的な街並みである。

余談であるが、この淀の地域の東に隣接している一帯は久御山(くみやま)町と云い、独立の町政を布く町であるが、この久御山町の淀と隣接している地区名もかなり変わっている。
「一口」という地名である。大変な難読である。
おそらくこれを読める人は地元の人以外にはいないであろう?
読み方は後程…。

宇治川を越えると、淀川顔、淀美豆(みず)、淀新町、淀下津、淀木津、淀池上、淀本町と繋がり桂川に至る。
そして桂川を越えて、淀大下津、此処から北東へ伸び、淀水垂(みずだれ)、淀樋爪(ひづめ)となって、京都の羽束師(はづかし)の公安委員会の自動車運転免許センターに至る。

淀の街の地区名のネーミングは殆どが水に関係したものである。
この地域は川の合流地点であり、今は埋め立てられてしまった大きな巨椋池にも囲まれた地域で、
古地図によると川中の島のような状態であった。
その関係で、水に関わる地名が多く付けられたのであろう…。

宇治川と桂川に挟まれた淀地域の北東側は、納所と云う地域と、そしてJRA京都競馬場がある。
今回はこの宇治川と桂川に囲まれた地域、すなわち淀の中心地区と納所地区を集中的にウオッチングして見ることにする。

出発点を宇治川渡った所、川顔(かわづら)町の入口の府道との分岐点に戻す。
ここから右斜め方向に旧道を進む。
このまま行けば競馬場の方に行くはずである。
旧街道らしく、虫籠窓の旧町屋が所々に見られる。
商店もあり、新しい住宅や駐車場も見られる。

暫く歩くと最近に高架になった京阪淀駅の南に到着する。
京阪電車の線路を潜って、真っ直ぐ行くと「納所」という交差点に到着するが、それは後程、行って見ることに…。
まずこの道を少し行って、左手にある商店街、淀本町商店街に入る。
この商店街を抜けると、木立のあるところに到着する。
右手が「与杼(よど)神社」である。
この神社は桂川の水上交通の守護神として祀られた淀地域の産土神である。明治になってこの淀城跡地の一角に移されたもので、現在は立派な社殿を構えている。

木立正面が淀城址である。
と云っても秀吉時代の淀君の居城では無い。
江戸時代になって将軍秀忠の命で松平定綱が入した城である。
その後、永井氏、石川氏、戸田氏、再び松平氏が入城した。
さらにその後は、稲葉正知が10万石で入城し、そして幕末まで稲葉氏が城主をつとめた所である。
現在は当時を偲ぶものとして石垣と堀を残しているのみである。
この淀城、幕末の戊辰戦争、鳥羽伏見の戦いに関係する。

その去就を少し見てみよう。

時の天皇である孝明天皇が崩御して、幕府は大政奉還により解散となったが、将軍慶喜(よしのぶ)は国の決定機関である御前会議で、まだまだ力を持っていた。
それが気に食わず、自らが主人公となりたい薩摩始め数藩が程なくクーデターを起こし、慶喜を追放した。
止むを得ず旧幕府は大坂に退去したのであった。

クーデター直後は倒幕派であった薩摩・長州の発言力は強かったが、時間と共に徳川に同情的な勢力が増えて行き、力関係は逆転しつつあった。
旧幕府を再び仲間に加える寸前まで来ていたその頃である。

薩摩藩が江戸市中で火付け、強盗などを頻繁に起こし、旧幕府を激昂させようと挑発した。
その効果があって、旧幕府軍は江戸の薩摩藩邸を取り締まろうとした。
薩摩はそれを攻撃と判断し、将軍慶喜の旧幕府軍への宣戦布告の口実とした。
戊辰戦争の勃発である。

その戦いは鳥羽街道で始まったのであった。
旧幕府軍は14,000の兵、新政府軍は4,000の兵。
兵の数から云ったら、旧幕府軍が圧勝のはずであった。
旧幕府軍は既に勝った気分で、会津藩士、桑名藩士、新撰組を先頭に、大坂から京を目指し、鳥羽街道と伏見街道の二手に分けて進軍した。

そして鳥羽の旧院御所付近や城南宮にて待ち伏せしていた新政府軍と出くわした。
どちらからともなく発砲した。

新政府軍は2倍3倍量の弾丸・砲弾を撃って来る。
さすが、南蛮渡来の新兵器で武装しているだけのことはある。

幕府軍は前進できないどころか、後退を余儀なくされる。
街道筋を行軍しているので、先頭付近しか戦闘が出来ない。
大軍は無用の長物であった。

旧幕府軍にそれなりの指揮官がいたら良かったのだが、新撰組の土方や見回り組の佐々木など、戦争を指揮したことのない連中しかいない。
個人戦は強くても団体戦などしたこともない。

更に悪いことに官軍の錦の御旗が新政府軍の陣地に立った。
予め用意していたものを朝廷の許可を得たということらしい。

旧幕府軍は鳥羽街道を、退却戦をしながら納所・淀付近まで引いた。
稲葉の淀城に一旦入って軍を立て直したいと掛け合ったが、門は閉ざされたままであった。
旧幕府軍は既に賊軍であるというのがその理由である。
仕方なく更に南へ、八幡の石清水(いわしみず)八幡宮のある男山まで引いて陣を張った。

しかし、淀川の向こうの山崎には津藩が大砲陣地を構えていた。
そこから撃ち込まれたのだから堪らない。
旧幕府軍は浮き足だった。
大坂目指して逃げた。
さらに、慶喜、容保、酒井ら旧幕府要人らは船に乗って江戸まで逃げ帰った。
それを聞いて諸兵も大坂をあとに、散り散りバラバラになって鳥羽伏見の戦は終結した。

この日を持って旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失った。
また旧幕府は朝敵とされ、朝廷において慶喜追討令が出されたのである。

このように鳥羽街道を大坂方面に退却し、この淀の地で軍を再編しようとしたが、それも叶わず逃げざるを得なかった旧幕府軍であった。

さて、元のウオッチングに戻る。
通って来た京阪電車のガードを戻り、淀駅に向かう。
するとそこはもう競馬場の入口である。
競馬場のウオッチングも有り得るが、特殊な所であり街角ではないので今回はパスする。
入口付近を眺めて、淀駅から納所の交差点まで歩いて行く。

この交差点は、先程から話題にしている京の羅生門から伸びてくる鳥羽街道の終点である。
現在の通りの名は千本通りと云い、その終点である。
この鳥羽街道を遡って行くと、今度は納所の街の全容が見える事を期待して歩くことにする。

納所とは、納める所即ち船で淀川を遡って運ばれてきた荷物を納める水運の倉庫のことであった。
物資はここから宇治川を運ばれて京の町に入って行くのであるが、その前に行く先に応じて仕分けされ、運ばれたのであった。

納所の交差点をスタートに歩いて見る。
旧町屋が点在して、古い街並みであることが良くわかる。
入口に近いところに「唐人雁木旧址」の石碑がある。
外国人、即ち朝鮮通信使が上陸したと云う港跡である。

暫く行くと右手の路地の奥に「妙教寺」という寺院がある。
この寺は名前からして法華宗の寺である。
境内には「史跡淀古城跡 戊辰の役砲弾貫通跡」の石柱が建てられている。
云わずと知れた、秀吉の側室「淀君」の居城となった淀城の跡地である。
城は室町時代に築城されており、淀君が入城の折に秀吉の弟秀長の手により改修されたものである。

『秀吉の側室となった茶々は子を身ごもった。
秀吉は茶々のために別邸を用意した。
伏見からでも、大坂からでも、舟で行けるところである。
以前の淀の砦の跡地に屋敷を整備し、茶々とわが子を住まわせた。
淀城と名づけられ、以来、茶々は城主となり淀殿と呼ばれるようになった』

この淀城は、先程見てきた江戸時代の城と区別するために、淀古城と呼ばれる。
淀新城が出来た時には廃城となり、その跡地は法華宗の寺となった。
そして淀新城の守護の役割を持って江戸時代を過ご、現在に至っている。
もう一つ、本堂内には戊辰戦争の折の砲弾貫通の跡があるが、非公開のために見ることはできない。

淀古城を後に更に北進する。
車の離合困難な細い千本通りである。
間もなく左手は桂川の堤防となる。土塁が積み上げられている。
土手に登って上流を眺めてみると、ずっと向こうに右手から京の市中を流れてきた鴨川が合流しているのが見える。

この辺りで、納所(のうそ)から外れ、横大路の地域へ入って行くので、ウオッチングは終了するが、先ほどの久御山町「一口」が気にかかる。

「いもあらい」と読むが、とても読めない地名である。

〔完〕