滋賀県の草津市の西部、琵琶湖岸に矢橋と云うところがある。
近江八景のひとつ『矢橋の帰帆(きはん)』として知られるところである。

一般的に知られている近江八景とは、江戸時代初期に選定されたと云われるもので、
『比良の暮雪』、
『堅田(かたた)の落雁』、
『唐崎の夜雨(やう)』、
『三井の晩鐘』、
『矢橋の帰帆』、
『粟津の晴嵐(せいらん)』、
『石山の秋月』、
『瀬田の夕照(せきしょう)』
この8つである。
これらは歌川広重が浮世絵に書いたことでも良く知られている。

「真帆ひきて 八橋に帰る 船は今  打出の浜を あとの追風」
と、歌われているように、東海道の大津、草津間を船に乗れば早く行けるということで、短縮路として利用されたのである。

今回の街角ウオッチング、この矢橋に出かけてみることにした。
矢橋の最寄駅はJR東海道線「南草津駅」である。
ここで降りて、琵琶湖方向を目指して歩くのも良し、バスに乗るのも良し、そう苦労することもなく矢橋の街に行くことができる。
この南草津駅はこの駅の南に出来た大学群への通学用に最近になって設置され、おまけに新快速電車も停車するという優れものの駅である。

この駅で下車して駅前広場に行くと、上手い具合にバス便があったので、それに乗り早速矢橋の方向に向かった。
バスの下車は矢橋にある草津総合病院、病院の玄関先がバス停である。
ここからウオッチングのスタートである。

この病院は田園風景の中に建っている700床以上のかなり大きな民間病院である。
病院の正面にこんもりした杜が見えているが、これは後にして、まずは琵琶湖を見てみよう。

琵琶湖岸を目指して歩く。
田園風景の中を少し歩くと琵琶湖岸に達するが、その先には大きな橋が架かっている。
矢橋大橋と云う。
この矢橋大橋はこの先にある人工島に通じている。
その人工島には「矢橋帰帆島公園」と「浄化センター」とがある。

橋を渡っていると小学生らしき団体とすれ違った。
人工島公園で遊んだ帰りであろう。

この人工島は今から35年前に埋め立てが開始され、その4年後に完成し、下水処理センターとして活用され始めたと云うことである。
その後、公園も整備され、現在は矢橋帰帆島公園として、市民の憩いの場になったと云うことである。
島の西側、琵琶湖縁には琵琶湖を一周できる湖岸道路も通っている。

公園内には、テニスコート、多目的グラウンド 、プール、屋内ゲートボール 場、相撲場、会議室・宿泊施設、グラウンドゴルフ場、キャンプ場などの施設が整備されている。
それに桜並木や桜の広場、子供の遊園施設もしっかりと整備されていて、色んな楽しみ方ができる公園である。
公園内を歩いてみた。
さすがに桜のシーズン、桜の木の元では家屋連れや団体チームが寛いでいるのが見られた。

公園散策後、同じ道を戻るのも芸がないので、別の橋を渡ろうと公園を縦断した。
かなり大きい島である。
途中、若いが見事な枝垂桜にも遭遇した。
やっとの思いで湖岸道路の南端の橋に到達した。
帰帆南橋という。

橋を渡る前に湖岸を散策した。
ここからは、すぐ南に近江大橋、そこから右に大津市内、坂本から比叡山辺りまでと、パノラマ展開している。

橋を渡ると正面には大きなイオンモールがある。
その手前を湖岸の道に沿って矢橋の街まで戻ることにした。
湖岸は葦の群生地である。
その向こうには水路を挟んで先程の帰帆島公園が見えている。
少々長い距離ではあるが、元の場所を目指して車に怯えながら歩いたのであった。

途中に矢橋港がある筈である。
船溜まりを見つければよいのではと思いながら歩いたのであった。

数隻のボートが溜まっている場所に到達した。
周りに貸しボート屋さんもある。
間違いなく矢橋港である。
しかしかなり寂れている。

道路の反対側(陸側)に何やら立て看板がある。
行ってみた。
江戸時代の矢橋の風景を描いた絵画と由緒書きが書かれている。
それによると矢橋港は奥行き90m、幅65mの大きな港であったそうである。
背の高い常夜灯もあって、それは今でもこの場所に残っている。

矢橋・大津の船の短縮ルートは、あの徳川家康も関ヶ原の時や大坂の陣の時には利用したと記されている。

常夜灯を見学して、草津から矢橋港へ当時歩いてきたと思われる道を逆歩してみよう。
しかし標識があるわけではない。
このような時には、お寺や神社を頼りに辿れば大抵は合っている。

直ぐに「鞭崎(むちさき)神社御旅所(おたびしょ)」の石柱と小さな社を見つけた。
更に行くと浄土宗正高寺、その近くに「左せたみち」の道標があった。
その次は浄土真宗良覺寺、浄土宗玉泉寺となっている。
いずれも良く整備された境内とお堂であった。

更に行くと、今度は変わったお堂を発見した。
重要文化財の「石津寺(せきしんじ)本堂」である。
説明パネルも建っている。
『石津寺は最澄の創立した寺で、もと天台宗であったが、後に真言宗に改宗したという。本尊は薬師如来。
現在の本堂は室町将軍第2代足利義詮(よしあきら)が再建したと伝え、・・・・。
寄棟造りの本瓦葺で、当時の密教の仏堂の形式である。』
となっている。

石津寺を後にして進む。
路地で迷ったりしながら、木立の杜を見つけたので行ってみた。

「鞭崎神社」の裏門に出た。
この神社の創建は奈良時代以前、天武天皇の勅命にて創建され、当時は四町四方の社領を有していたそうである。
朝廷や領主の崇敬が厚く、あの菅原道真が参拝した時には「ふる雪に 色惑わせる 梅の花 鶯のみや わきて歌はん」と謳ったそうである。

この神社、当初は矢橋八幡宮と称したが、1190年の源頼朝上洛の折、馬上より鞭の先を神社に向けて村人に尋ねたことから鞭崎八幡宮と云うようになったと云われている。

江戸時代には膳所藩主から庇護されたが、明治の膳所城廃城に伴い、膳所城から南大手門がこの神社の表門として移築され、重要文化財に指定されている。
このように、なかなか由緒正しき神社であった。

この神社の門前に、矢橋街道の説明看板が建っている。
それによると、
『矢橋道は、近江八景矢橋帰帆で著名な矢橋の渡しへの道で、東海道の脇道であった。
勢田(瀬田)橋経由の陸路にくらべ、矢橋港から湖上50町ほど(約5.5km)の大津への航路は、「勢田へ回れば三里の回りござれ矢橋の舟にのろ」とうたわれたように、先を急ぐ旅人が重用するところとなり、これにつれて矢橋道も大津への短捷路として往来が激しくなった。
・・・・・』
とされている。

ここで琵琶湖の南端の地形を見てみよう。
草津の矢橋と大津は東西の関係になっているが、その間に瀬田川へと向かう琵琶湖が大きく南に張り出している。
その分U字風に瀬田の唐橋まで遠回りしなければならないのである。

鞭崎神社の門前はかつての矢橋街道である。
旧町屋もあり、一部カラー舗装もされている。

この道を行ったところに東海道との別れがあり、道標が建っていた。
その場所に当時は「うばがもち屋」があった。
「瀬田へ廻れば三里の廻り、ここが思案のうばがもち」
と、旅人はうばがもちを食べながら思案したと云われる。
このうばがもち屋、現在は草津駅に近いところに移転している。

余談であるが、「急がば回れ」ということわざがある。
このことわざは、室町時代の連歌師である宗長が詠んだ歌、
「もののふの 矢橋の舟は 早くとも 急がば回れ 瀬田の唐橋」
が語源となっていると云われている。

この矢橋道を草津宿まで辿れば、矢橋街道探歩も同時に達成になるが、今回は街角ウオッチングである。
それにここまで来たらもうそんな元気も残っていない。
街角の先に見える大きな草津総合病院を目指すのが背一杯である。

住宅街の中を抜け田畑の間を通り病院のバス停に辿り着いたのであった。

バスを待ち、南草津の駅に到着して電車を待ったが、踏切事故か何かで電車が大幅に遅れている。
ホームもかなり人が多くなっている。
やっと来た電車は満員状態で、疲れが倍加した矢橋(やばせ)のウオッチングであった。

〔完〕