〔前話から続く〕

物集女の公民館から、教えられた通りに路地を南下する。
暫く行くと迷わず、淳和(じゅんな)天皇火葬塚に到着した。
街中に佇む小さなこんもりとした森である。

淳和天皇は桓武天皇の息子で、桓武天皇より3代後の天皇である。
この地で火葬されたと云い伝えられ、そして遺骨は砕かれ西にある小塩山に散骨されたと云われ、その山頂に陵がある。

火葬塚の南に淳和天皇の棺を運んだ車を埋めたと云う車塚古墳もある筈である。
探したが分からないので、止むを得ずパスし、今度は桓武天皇皇后陵に向かう。

少々の山登りである。
小学校の先にある筈であるが、道が二手に分かれていて迷う。
先ずは右の寂しい方の道を山へと登って行く。
溜池の畔を通る。
道はあるがそれらしくはない。

この道をあきらめて元へと返し、今度は左側の住宅地の道を登る。
登って行くと先に繋がっているような道となる。
この先にも小学校があるようで、幾組かの子供たちの集団と出遭う。

竹藪の中を抜けるとT字路に出た。
その交差点の右手に古墳陵らしきがある。
見てみると「桓武天皇皇后高畠陵古墳」とある。
皇后は藤原乙牟漏(おとむろ)と云い、藤原一族である。
そして平城天皇、嵯峨天皇の母でもある。

陵を後にして、交差点を右にとり、もう少し行ってみることにする。
右手に小学校がある。
向日(むこう)市立第6向陽小学校という。

学校の前に付近の案内看板がある。

この辺りは「西ノ岡丘陵」と云い、この道は「西ノ岡竹林通」という。
この道をさらに西に行けば、有名な「竹の径(たけのみち)」に続いていると云う。
竹を束ねたり細工をしたりした竹垣に囲まれた竹林の綺麗な景観が楽しめる所である。
そこへ行くと帰りが遠くなってしまうので、諦めてこの丘を東へ下りることにする。

住宅街を下って行くと、広い道に出る。
大原野(おおはらの)と向日町を結ぶ「大原野道」である。
この道を東へ下り、「む」の駅である「JR向日町(むこうまち)駅」を目指すことにする。

途中に「白鳳の泉」という水が湧いている場所がある。
白鳳時代から涌いていると説明されている。
更に行くと右手の一角に慶昌院と云う文化財を擁した寺がある。
少し立ち寄り、再び大原野道を下る。

今度は北から下ってくる物集女街道と交差する。
この辺りは住宅街であり、特に目ぼしいものは無い。

更に行くと今度は寺戸町梅ノ木というところで西国街道と交差する。
道標なども見られる。
大きな長屋門と幾つかの蔵がある立派な古民家がある。
やはり西国街道沿いである。

道は狭くなるが、更に東へ向かう。
阪急の線路を越えると道は少し広くなるが、ここもよく見られる普通の住宅地である。
特段の特徴は見られない。

もう少し行くと今度はJRの線路にぶつかる。
向日町駅の少し南側にある踏切である。
踏切の向こうにある線路は東海道線の上下2本だけではない。
見たところ10本以上はありそうである。

この場所はJRの京都総合運転所という。
特急電車を始め、多くの電車の基地である。
電車が時々出入りするので、踏切は「開かず」となっている。
向こうへ行って見たいが、時間が掛かりそうなので、線路沿いに北へと向かう。

少し歩くとJR「向日町駅」に至る。
向日町駅は京都府の最初の駅である。
明治9年に官設鉄道が大阪駅から京都方面に延伸した際の終着として開業したものである。
その後、線路は京都市内まで伸び、途中駅となったのであるが…。

しかし当時は西国街道との交差する駅であったため、この乙訓(おとくに)地域の玄関駅であり、賑わったと云われる。

向日市は、市として成立する前は乙訓郡「向日町(むこうまち)」と云った。
その向日町という名を残し、歴史を伝える駅としてこれからも存続して行くものと思われる。

〔らノ駅、むノ駅 完〕