今回は和歌山県北部で大阪府との境目にある根来の街と、その街の先にある根来寺をウオッチングしてみることにする。
根来寺は、前シリーズのいろは街道で大阪側から通っている根来街道を探索したが、今回は和歌山側から根来を訪れて、旧門前町である根来の街と根来寺を訪れてみることにした。

JR和歌山駅を起点とし奈良の王寺へ向かう和歌山線で紀ノ川筋を遡り、岩出駅で下車した。
岩出駅の裏手には、5分ぐらいのところに水路沿いに奈良へ向かう旧大和街道が通っている。
その石柱を確認してから駅前に戻り、和泉山脈を越えて大阪の南海電車樽井駅へと向かう乗合バスに乗った。

バスは岩出の駅前のそう大きくない商店街を通り抜け、広い道路に差し掛かる。
通ってきた町中の商店街はあまり活気が無いように見える。
そして広い道路に出ると、大型の郊外型店舗がたくさん見られようになる。
現在の日本のどこにでも見られる共通の風景である。
概して地方都市では、町中の商店街と郊外が皆このようになってしまっているのは残念なことである。

15分位バスに乗っていたのであろうか?「根来」というバス停まで来たので、ここで下車した。
南北の旧根来街道と東西の上淡路街道の自動車道同士の広い交差点である。

さてどうするか?
地図も持たず方角も定かでないので、あっちの道に入ったりこっちの道に入ったり、根来寺への参道を探すしかない。
案内看板もない。
付近の人に聞けば良いのだが、車の往来はあっても歩いている人はいない。
仕方が無いので自力を発揮するしかない。
しかし、ウロウロすることで、根来の街をウオッチング出来ると云うメリットはある筈である。

根来という交差点のところに中型のスーパーやガソリンスタンドがある。
根来小学校もある。
幾つかの飲食店も見つかったが、まだ時間的に早いのか、閉まっているようである。
その他、農機具関係やら日用品など、いろんな商店がある。
ここが根来の中心街であろう。

暫くうろついた結果、交差点の随分西に、やっとそれらしき通りを発見した。
大きな民家が軒を並べている通りである。
これに違いがない。
この通りを進むことにした。

先ずは根来寺の歴史を振り返って見る。
ここ根来の界隈が隆盛したのは、根来寺が創建された鎌倉末期から秀吉に滅ぼされる戦国末期までの時代である。
この街が栄えていた時代は、根来と云う名称が付いていたのは寺だけで、門前町は西坂本村などの幾つかの村で構成されていた。
根来という町名は、明治時代になってから、根来寺の下に広がるこれらの村々が合併して、寺の名前に因んで根来と付けたと云われている。

根来寺創建の経緯であるが、この地よりずっと東の山中にある真言宗高野山内で、主導権の争いが勃発し、そこを追われた硬派の覚鑁(かくばん)僧正のグループが再興を期して、僧たちを引き連れて高野山を降り紀ノ川を下り、ここ根来の里に教義伝道の一大道場としての大伝法院を擁する寺を建立したことに始まる。

根来寺は鉄砲の伝来にも深く関与していて、種子島に鉄砲が伝えられたとき、根来寺の津田監物という僧がいち早く種子島に渡り、鉄砲と火薬の製法を習いこれを根来の地に持ち帰った。
そしてそれを門前町に住む堺の鍛冶師、芝辻清右衛門に作らせ、量産できるまでに至ったのであった。
その時代には日本の鉄砲生産地として栄えたのであった。

合わせて射撃技術も相当なものであった。
紀州の海岸線に陣取る雑賀衆と連帯していて、その鉄砲術で根来・雑賀衆と云えば、全国の武将たちから恐れられていたことは良く知られている。

当時は根来寺に10,000人もの学僧や僧兵達がいて、寺内は勿論のこと、寺外の門前町も大きな街となっていた。
今で云うマンモス大学とその周りに学生街ができているようなものであった。

全国制覇を狙う身勝手な秀吉に滅ぼされた根来の衆は高野山に戻った者もあったが、その時のリーダーであった学院「智積院」の住職玄宥(げんゆう)が京都の地に智積院を創建し、多くの僧たちもそこに移住した。
根来寺が京に引っ越したようなものである。
また、僧籍を離れ門前に居を構える者もいた。

しかし江戸時代になってからは、紀州徳川家の援助で寺は維持できていたが、世間からは寺も門前町も顧みられることはなく、衰退の一途を辿ったのであった。
門前の住人達はそれ以来、田畑を開墾し農業に精を出すことにした。
根来の地は門前町から農業主体の村落へと変貌を遂げたのであった。
江戸末期のデータでは、根来の門前には家屋190戸、人口671人であったと云われている。

この根来の街には今でもまだ門前町の面影は残っているのであろうか?
前置きが長くなったが、門前の参道を歩き、それを確認するのが今回のウオッチングの目的の一つである。

先ほど見つけた参道であろうと思われる入り口から入ってみる。
入口には2、3の商店もあるが、その後は民家が軒を並べている。
長屋門の門構えがあり、2階建ての大きな母屋が沢山見られる。
屋敷と屋敷の間には殆ど隙間は無い。
町筋のように家が密集してるのは門前町の名残りであろう。

これらの家屋の建築年代は、明治・大正の頃である。
入母屋造りの2階建ての大邸宅が並ぶ街、そのような印象である。

少し行くと、右手にひときわ目立つ長屋門があった。
たらこ壁を下半分に配したものである。
この門は江戸時代の建築だそうである。
おそらくはこの集落の庄屋であったので、それを残しているものと思われる。
金田家長屋門と云い、この市の指定文化財となっている。

路地を覗きながら進む。
右手の路地の向こうは根来の山から流れて来る川、根来川である。
その川の向こうに寺院がある。
門前にある橋を渡って確認すると、日蓮宗誠證寺という寺であった。

もとの道に戻る。
さして変わる風景ではない。
間もなく自動車道、旧根来街道に出る。
これを横断して根来寺の寺域へと進んで行くことになる。
参道が広い旧根来街道に出たところに岩出市立図書館が新しく整備されている。
しかし町中からはかなり外れているので利便性はどうなんだろうか?

ここから根来川沿いの綺麗な道を遡って行く。
シーズンになれば、恐らくは桜並木が楽しめるのであろう。

この道を5分程度歩くと根来寺の大門に到達する。
高さ、幅とも17mの大きなものである。県の指定文化財になっている。

大門を後に進んでいく。
途中に塔頭があったりする。
さらに進んでいくと、茶店のある場所に至る。
ここから左手の石段を登り、中国風の門を潜り、常光明真言殿に到達したのであった。
ここには開祖覚鑁上人の尊像を安置するとともに、左右に根来寺復興に力添えをした紀州徳川家の位牌が祀られている。

まず、お参りをし、ご朱印を頂いた。
見事な庭園もあるのだが、前回に見学をさせて頂いたので、今回はパスである。
ご朱印を書いてくれた女性に聞いて見た。

「今、参道を歩いてきたんですが、大きなお家が多いですね?」
「この辺りは農家ですから、大きいですよ。庄屋さんなんかのは、かなりなもんですけどね…。
この辺りには根来って姓が一軒もないんですよ。秀吉に焼かれてから、別の姓に変えて隠しているんですよ」
秀吉は寺を滅ぼした後も、権力を背景にしつこく残党狩りをしたのであろう。
現在もこの辺りの人々は遺恨を持っている。

根来寺と云えば国宝の大塔が有名である。
高さ40m、幅15m四方の我が国最大の多宝塔である。
天文16年の竣工である。
基部には秀吉に攻められた時の火縄銃の弾痕が残されたままになっている。

大塔を遠目に見て、バス停へ急ごう…。
このバスを逃したら、次まで1時間程度の待ち時間となる。
根来寺の駐車場のところがバス停である。
この横には、岩出市民俗資料館が設置されている。
かなり新しいものである。
しかし見学する時間は勿論ない。

バスが来たので乗った。
岩出駅へ戻るバスである。
しかしストレートに行くのではなく、何か所か寄り道することになっている。
時間が掛かりそうである。

バスは山を下りる前に、同じ山の続きであるKK大学に寄り道した。
生物理工学部という学部があり、大きなキャンパスである。
学生さん達は通うのも遊ぶのも大変だろうな?と云うのが実感であるが、学問をするには良い環境であるとは思う。

バスは山を下りる。
上淡路街道まで下りて、西に向かって走る。
根来(ねごろ)のバス停のところの交差点で南に折れ、来た道の旧根来街道を辿り、岩出駅へ向かって走って行くのであった。

このウオッチングもここらで終わりとしよう。

〔完〕