「ねのひ」と云う純米酒を手に入れた。
良くは知らなかったが、珍しく名古屋の酒である。
酒元はMT株式会社と書かれている。
この時はMTと云う姓は愛知県には多いのかなあ?ぐらいにしか思っていなかったが、後で調べてみて、大変なことを発見したのであった。

まず酒である。
「ねのひ」は濃厚であった。
ラベルを見てみるとアルコール度16~17%であり、標準の酒よりも1%多い。
これが濃厚感を醸し出している。
酒度(辛口度)は少し辛いぐらいなので、+3~4ぐらいなのであろうか…。

とにかく濃厚なので、今までのようにグイグイとは飲めない。
空けてしまうのに2倍の時間程を要したのであった。

名古屋は八丁味噌に代表される濃厚な料理が多いと思うが、その料理に濃厚な酒とは、こってりと食事を楽しむ県民性であろうか?

蔵元の説明でも、『濃厚な味付けの知多半島の郷土料理とともに育ってきたMTの純米酒は、濃醇で飲みごたえのある味わいです。仕込み水には木曽御嶽山自然水を使っています』 とある。

酒蔵のある知多は戦国時代の武将、家康や三河武士を数多く輩出した地域にも近い。
愛知県恐るべしという味わいの酒である。

この酒と蔵元の歴史を調べてみた。
どうせバレてしまうので、MT=盛田であることを最初に明らかにしておく。

盛田とは世界的規模の日本の電機メーカーSO社の創業者の1人、盛田・井深のその盛田氏である。
テープレコーダー、ウオークマン、トリニトロン、VAIOパソコン、プレステなど万人に知られているあのSO社である。

盛田酒造の歴史は、江戸初期まで遡る。
この盛田家は知多半島の現在の常滑市小鈴谷の庄屋であった。
尾張藩から酒の免許が与えられ、創業したのであった。

元禄のころになると好景気に支えられ、味噌溜の醸造も開始した。
その元禄の最盛期、7代目、8代目当主の頃には江戸に酒を販売し、売り上げの拡大がなされたと云う。
しかし世の中不景気が見え出した天保の頃には、年々、近畿勢(特に灘・西宮)の巻き返しに大幅に落ち込んだのであった。

12代目当主は家業の安定を図ろうと多角経営に乗り出したと云う。
隣村の同じ酒造家である陸井太右エ門と協力し千石船を三艘購入し、御前崎、清水、下田に寄港する江戸航路を開拓したのであった。
そして帰り船には江戸で買い入れた干鰯、〆粕を乗せ、碧南や西尾に肥料として販売し、利益を得たと云われる。

また、木綿問屋を買収し木綿店を開業したり、明治維新を迎えたときには、更に積極策として醤油の醸造を始めた。

商品の品揃えが出来た明治には清水の次郎長の協力を得て清水に販売店を開設し、駿河湾から東京への販路を拡大して順調に事業を伸ばしたのであった。

しかし、いつまでも順調なわけではない。
事業拡大のためブドウ園を開拓したが、害虫被害のために中断、大きな損失を出した。
また、骨董に手を出した当主もいて、資産はほぼゼロまでになったと云われる。

そこに登場したのが14代目となる人物・彦太郎である。
彼は実家の惨憺たる状況を直視し、大学を中退して再建に邁進することになる。
骨董品をオークション方式で売却して会社再建の資金を作ったり、問屋を通さず自分たちの手で直接小売りしたりした。

志あるところに意自ずから通ずるものである。
社員の懸命な努力により業績は徐々に回復してきたのであった。
そしてこの機会に本店を名古屋市中区に移し、小鈴谷を醸造所とした。
この「自分の会社の製品は、自分の手で売る」という方式は次期15代目となる息子の昭夫氏にも引き継がれている。

余談であるが盛田家の分家の盛田善平氏が「Pasco」の商標の敷島パンを創業したのも良く知られるところである。

そして会社は健全に立て直されたが、時は太平洋戦争の戦時下、物資は配給制となり、盛田の販売網は不要となった。

会社を立て直した彦太郎改め命英氏の長男昭夫氏は海軍の技術将校となっていた。
丁度敗戦となったため、昭夫氏が帰ってきて当主を継ぐものと一族は期待していた。
しかし昭夫氏から、
「井深と会社を興すことにしたい」
と、その計画の申し出があった。
「昭夫がやりたいというのなら、それも良いだろう。しっかりおやりなさい」と父は承認したと云う。
そして昭夫氏の夢を実現させてやろうと、名古屋の土地を売り、その大金を投資したのであった。

その次の年の昭和22年、盛田合資会社は14代目当主命英氏が会長となり、不在の昭夫を氏を15代目当主・社長として、昭夫氏の弟・和昭氏を専務として再スタートを切ったのであった。

後に和昭氏は当主代行として家業を護り、盛田家100年間のワイン造りの夢を、「シャンモリ・ワイン」として実現させたのでもある。

〔ねノ酒 完〕