「ぬ」を頭文字とする駅は関西方面には極めて少ない。
今回は唯一とも云える近鉄奈良線の「額田(ぬかた)駅」を訪問することにする。

大阪難波を出た近鉄電車は日本橋や上本町、鶴橋、布施を過ぎ、ラグビーで有名な東花園、そして瓢箪山を過ぎると、生駒山の山裾の斜面を上昇し始める。

山腹の駅には大阪側から枚岡、額田、石切の3駅がある。
そして石切を過ぎると電車は生駒山のトンネルを潜り、生駒駅へと抜ける。

額田駅で降りるとそこはかなりな傾斜地である。
駅周辺の標高は約70m、眼下には東大阪市や遠くに大阪市などの大阪平野を眺めることができる。
駅から山方向に上ったり、下方向に下ったりすると、かなりエネルギーを使いそうなので、横方向に通っている町内の幹線道路?を石切方面に歩いて、駅周辺を見てみることにする。

額田の街並みはこの道路を中心に上への路地の上り斜面、下への路地の下り斜面に住宅が建てられている。
日々ここで生活するのは大変だな…と思われるが、その反面、足腰が鍛えられるメリットはあるとも思われる。

さてこの額田という駅名・地名の由来であるが、どうであろうか?
古代、ここには渡来人の豪族額田氏が住んでいたと云われる。
額田氏はいくつかの系統に分かれていて、ここに住んでいたのは額田首という一族だと云われる。
当時のここの額田氏の生活域はかなり広く、生駒山の山頂から下の平地の恩地川の辺りまでと云われる。

古代の歌人に「額田 王(ぬかたのおおきみ)」という女性がいた。
この額田王はここの出身でないかと云われている。
しかし諸説あるので、こことは言い切れない。

『三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情こころあらなも 隠さふべしや』
〔額田王 万葉集巻1‐18〕

この歌は、667年に都が飛鳥から近江の大津京に移ることになった時、その近江に向かう途中で詠んだ歌である。
『飛鳥を離れて、遠い近江の大津京まで行かなければならないのに、雲はなぜ三輪山を隠してしまうのか、最後まで見ていたいのに…、情けあれば隠さないでほしい、この寂しい気持ちを分かってほしい』

『あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る』
〔額田王 万葉集巻1‐20〕
これは近江の都で詠んだ歌である。
『茜色の光に輝き、紫の花の咲く、天智天皇御領地の野で、あなたはそんなに袖を振ってらして、野守が見るかもしれませんよ』
あなたとは大海人皇子(おおあまのおうじ)のこと、この後に起こる皇位争奪戦、壬申の乱の主役である。
大海人皇子は天智天皇の弟という人物であり、このときは額田王は天智天皇の妃であった。
三角関係であったのでは?と云われているが、それはそれである。

このような古代の物語が浮かんで来る額田という名である。

額田駅から北の石切方向に歩いて行くと、山側に石切温泉「SR」という大きなホテルがある。
この辺りの大ホテルで、イベントや大宴会が開かれるところである。
下界の平地から眺めているとそう大きなものとは思えないが、真下では相当大きい。

ここら辺りの足元にはトンネルがある。
一つは地下鉄から直通の近鉄生駒線のトンネル、もう一つは、第二阪奈道路のトンネルである。

途中に「正興寺山遺跡とその周辺」という石碑が建っている。
この辺りでは二上山で採れるサヌカイトとを加工した石器が採取されたとのことである。
また、数基の古墳からなる神並古墳群も残されていると云う。
古代や中世の初めごろまでは現在の大阪平野は海だったので、このような高台に人々は住まいしたのであろう。

もう石切参道の所までやってきている。
この場所には石切大仏が座っている。
看板によると、日本で三番目の大仏だそうである。
開眼は1980年、今から33年前、高さ6mで、阪本昌胤氏が建立したとの説明がある。
何が三番目なのか? 良くは分からない。

ここから参道を登り線路を山手方向に潜り、今度は線路沿いを南の額田駅を目指して下る。
時々電車が走っているが、上り電車はそんなにスピードは出ていない。
かなり傾斜がキツイのであろうか?

暫く歩いて額田駅に戻ってきた。
この辺りから山に登って行くと、渓流沿いに建立されている多くの寺院、あるいは枚岡公園、そして生駒山の稜線の手前には府民の森「ぬかた園地」があるが、今回はパスである。
駅のベンチに座り、今回の駅探訪を終了した。

余談であるが、額田駅の額という字を「ぬか」と読むのは、「ぬかづく」というひたいを地面につけて拝むと云う古代の習慣から来ているということである。

〔ぬの駅 完〕