「さ」の駅はオーソドックスであるが京阪本線の「三条駅」を選んだ。
大阪から京都に向かう京阪電車は、京都の街に入ると、鴨川沿いを柳や桜を眺めながらの風光明媚な路線であったが、近年は地下化されて暗いトンネルを走ることになってしまったのは、残念なことである。
しかし、車社会に重きを置く都市交通から考えるとその方が良いのは間違いがないので、そうせざるを得なかったのであろう。

長い間三条駅が京阪電車の終点であったが、現在は出町柳まで延伸されている。
おまけに三条駅では直交して地下鉄も通っているので、どちらかと云うと乗り継ぎ駅の比重が高まって来たのではと思われる。

三条駅は地下になったが、そこにはずっと以前から東海道五十三次とした場合の終点の三条大橋があり、その風景はあまり変わらない。

今回は三条駅の周辺、三条大橋の周辺を少し眺めてみることにする。

三条の駅の北西の出口階段を上がると、そこには「駅伝の碑」がある。
大正6年この場所をスタートに、東京まで3日間の駅伝が行われたと書かれている。
ゴールは上野不忍池の博覧会会場だったとも書かれている。

交差点の対面、南東側に高山彦九郎の皇居望拝の像がある。
彦九郎は云わずと知れた林子平や蒲生君平と並ぶ「寛政の三奇人」と云われた尊王家である。

三条大橋を西に渡り始める。
この三条大橋であるが、本格的な橋が架けられたのは秀吉の時代である。
奉行増田(ました)長盛が既に架かっていた簡素な構造の橋を大改修したものと云われている。

橋を渡り始めると、下流向こうに先斗町(ぽんとちょう)の歌舞練場が見える。
鴨川をどりで知られる歌舞練場である。

少し余談である。
先斗町はなぜ先斗町と云うのであろうか?
日本語起源で無いことは確かである。
説では、ポルトガル語から来ているというのが有力である。

なぜポルトガル語なのか? それは織田信長の時代に、この辺りに教会があったことに起因していると云われている。
ポルトガル語の「PONT」は「先」を表し、また「PONTE]は橋を表し、更に「PONTO」は英語のPOINTにあたり、東海道五十三次の終着点を表す。
そして、これらがミックスされて「先斗町(ぽんとちょう)」と云う名が出来上がったと云う説である。

しかし日本的には、先斗町は高瀬川と鴨川に挟まれた地域であるので、川(皮)と川(皮)が両側にある楽器である鼓(つづみ)を叩いたら、ポンと音がするので、そこから来ているという洒落のような説もあり、面白い。

三条大橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)は当時のものと昭和のものが混在位していると云われる。
西から2本目の南北の擬宝珠には、幕末の動乱の時の刀傷が残っていて、その当時を偲ばせてくれる。

また西の袂の上流側には秀吉時代の石の欄干が残っている。
またこの場所には高札場もあったと説明されている。

 

 

同じ袂の下流側には、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」で知られる弥次喜多の像が建てられている。
弥次郎兵衛50歳、喜多八30歳である。

江戸の八丁堀に住んでいた2人は度重なる不幸から、厄落しを思い立ち、東海道を伊勢神宮へと向かう。
行く先々で騒ぎを起こすが、狂歌や洒落でかわして行く。

お伊勢さんの参拝後、足を延ばして京・大坂見物と洒落込み、京へ到着した時の姿を表したものである。

三条通を西へ進む。
高瀬川に出る。
高瀬川は角倉了以が淀川からの水運を街中まで延長しようと開削した運河である。
手前の川沿いの道は木屋町通りという。
木屋町通りを南へ下がる。

そこには西山浄土宗の瑞泉寺(ずいせんじ)の山門がある。
山門の前には「豊臣秀次公之墓」と、そして豊臣家の家紋を描いた提灯が下げられている。
これは訪れてみる価値がある。
早速入ってみる。

門から入り、右手奥に秀次公の墓がある。
秀吉の甥の秀次は、秀吉の跡取りとして関白に任じられていて聚楽第の主であったが、秀吉に実子秀頼が生まれてからは手のひらを返したように疎んじられ、最後は罪を被せられ自害させられた。
そして悲劇は続き、実子や妻妾たち39名がこの三条河原で死刑にされると云う惨いことが起こったのである。

その39人の中には、宝塚小浜豪摂(ごうしょう)寺の亀姫(小浜の局)の墓もあり、感慨深く眺めたのであった。

高瀬川の三条通から北には、土佐藩邸や竜馬が宿舎とした油屋などもあるが、そこはまたこの次にして、三条駅周辺の探訪を終了する。

〔さノ駅 完〕