「き」の付く駅は、京都市の東山地区鴨川に沿って走る京阪本線の「祇園四条駅」と「清水五条駅」の連続する2駅を選んだ。
この2駅は前節の「三条駅」と合わせて、東山観光にそれぞれの名所に最も近い電車駅であり、京阪電車の目玉駅でもある。
祇園や清水は読者の方々も良くご存じであろうと思うので、付近の観光は今回は省略する。
これらの駅は前節の南側にある駅である。
京阪電車の駅が集中していて申し訳ないが、敢えてこれらの駅を選んだ。

それには理由がある。
これらの駅名と、三条駅の北隣にある「神宮丸太町駅」の名前を聞くと、駅名とは何であろうか? と、ついつい考えてしまう。
そこで今回は少し辛口になるかも知れないが、駅名について考えてみる。

「祇園四条駅」も「清水五条駅」も、そして「神宮丸太町駅」もここ数年前まではそれぞれ「四条」「五条」「丸太町」と云う駅であった。
しかし数年前、正確には2008年の10月、頭に冠を付けた駅名に変わったのであった。

何故か?
京都市内には烏丸通りを南北に走る線区として、京都市営の地下鉄がある。
この地下鉄が開通した時、その駅名を「四条」「五条」と付けた。
この時は京阪の方は、ずっと昔から三条まで来ていて、「四条駅」「五条駅」は既にあった。

同じ駅名が存在するとそれは乗換可能駅と思うのは当然であろう。
これらの駅は多くの鉄道利用者の方に困惑を持ち込んだのである。

例えば東京方面から京都駅に来て、JR奈良線で「稲荷駅」へ行き、伏見稲荷にお参りして、「伏見稲荷駅」から京阪電車に乗って「四条駅」に来て祇園観光した後、地下鉄「四条駅」から京都駅に戻り、駅のデパートでお土産の買い物して、新幹線で帰ると云うような場合である。

四条駅の乗換は、鴨川を渡り、四条河原町に来て、そこから四条通りの商店街をかなり歩いて、烏丸通りに至り、四条駅に到達すると云うことになる。
時間に余裕を持っている場合は良いが、帰りの新幹線の時刻が迫っている時などは焦る。
乗換を諦めて、タクシーでということにもなる。
そしてお土産を求める時間は無くなる。

そんなこんなで、両方の鉄道事業者にはクレームが多かったのである。

こういう時には、後に営業を始めたのにも関わらず駅名を被せた事業者が譲るべきであろう。

市営地下鉄の方がそれぞれ「烏丸四条」「烏丸五条」と改めれば良かったのであるが、市という立場からは譲らなかったのであろう。
「我らが市のことは誰の指図も受けない」
という気持であったのであろうか?

その後、京阪電車が三条から北へ延伸して途中駅を地下鉄と同じ「丸太町駅」と名付けた。
京阪電車が京都市に倍返しならぬ「半分返し」をしたのであろう。
しかしそれは混乱を益々助長することになった。

その後どういう経緯があったのか分からないが、その決着は京阪電車が一歩も二歩も譲って、5年前に重複駅名を全て改称したのであった。
冒頭に述べた駅名にである。

京阪電車としては、想像であるが、
「変えるには変えるが、そこには観光地を表す名前を入れよう。そしてその観光地へは京阪が一番便利であると云うメッセージとしよう」
と、考えたのでは無かろうか?

転んでも只では起きない。 流石、大阪商人である。
しかし理由はともかくとして、京阪電車の英断には大拍手である。

鉄道事業者は勘違いしてはいけない。
乗客の利便性が何をさておいても最優先であるべきである。
乗り換えができない駅に同じ駅名を付けてはいけない。
自らのメンツや都合だけで決めてはいけない。
顧客に「安全」「安心」「利便」を提供してこそ事業の存在意義があると思う。

もう一つ、この機会に難読駅名に触れてみる。

難読駅名が全国に少なからずある。
漢字が難しくて読めないもの、一般的な読み方では正しくないもの、様々である。

先日ある駅を目指した。
あるローカル線に乗って、降りる駅を「中田駅」と決めていた。
ディーゼル車両であるので、アナウンスは聞こえにくい。
「なかた駅」と思っていたので、該当する駅名アナウンス「なかた」を耳を傾けて待っていた。

そのうち「ちゅんでん」というアナウンスがあった。
「ちゅんでん? ひょっとしたら…?」
その「ちゅんでん」駅に到着した。
駅名表示板を見たら「中田」と書いている。
ボーッとしてたら危うく乗り過ごしていたところであった。

難読がどうかは分からないが、一般的でない読み方をする駅はひらがなにすべきであろうと思う。
その場所の伝統的な地名をひらがなで書くなんて…、との声が駅の地元から聞こえてきそうであるが、駅名は通称とか愛称とか思えば良い。
列車内のアナウンスと整合性が取れてこそである。
難読駅の存在を嬉しがるのは、テレビのクイズ番組の出題者か、鉄道マニアぐらいなものであろう。

あくまで鉄道事業者は多くの利用者の利便性に徹するべきである。
難読・誤読はその主旨に大いに反する。

国民の50%以上が読めないものは、あるいは誤読するものは、ひらがな表記にすべきであると思うが、如何であろうか?
読めない人が悪いのではなく、分かり良くするのが大事である。
既にそういう時代が来ていると云うことを考えないといけないのではないだろうか?

〔きノ駅 完〕